クロアチア独立国軍(クロアチアどくりつこくぐん)は、クロアチア独立国の国軍。1941年に創設。1945年に解体。なお、1941年4月から1943年1月までの総司令官はスラヴコ・クヴァテルニク。
1941年4月にクロアチア独立国が建国され、同年4月11日、陸軍総司令官アウグスト・マリッチの指揮の下、クロアチア郷土防衛隊(英:Croatian Home Guard クロアチア語: Hrvatsko domobranstvo)が編成された。クロアチア郷土防衛隊は、5個師団区(サヴァ、オシイェク、ボスニア、ヴルバス、アドリア海師団区)に分かれた。
1941年11月1日、郷土防衛隊最初の再編が行われ、軍は3個軍団(第1軍団、第2軍団、第3軍団)に編成された。ちなみに、1941年から1944年までの陸軍総司令官はヴラディミル・ラクサ(再編時にマリッチと交代。クロアチア軍参謀総長と兼任。)。
計4個大隊はドイツ軍武装親衛隊の制服・記章を採用し、スリイェムとスラヴォニアで軍事行動中であったが、1943年4月にドイツ武装親衛隊第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」に吸収統合された。また同年同月に非ドイツ系のクロアチア人で編成されたクロアチア第1、2狙撃兵大隊が同師団に吸収統合された。
定数:19000人(主にバナート、ルーマニア、クロアチアで不法に徴兵されたドイツ系で編成)
1943年5月1日、2度目の軍の再編成が行われた。
郷土防衛隊とは全く別組織でウスタシャは独自の軍組織を有していた。制服、階級記章も郷土防衛隊とは全く別個である(郷土防衛隊はドイツ軍の軍装に、ウスタシャ民兵はイタリア軍の軍装に似ている)。ウスタシャ民兵はドイツの武装親衛隊に性格的には近い。
なお郷土防衛隊とウスタシャ民兵は1944年11月21日を期して統合され、クロアチア国軍(Hrvatske Oruzane Snage・Croatian Armed Forces)となった。
1944年11月21日、アンテ・パヴェリッチは軍の再編を行い、郷土防衛隊とウスタシャを統合した。この再編によりウスタシャ出身者が主要ポストを占め、事実上国軍はウスタシャの完全な支配下に置かれた。初代司令官はジュロー・グルイッチ(1945年5月6日まで。参謀総長と兼任。)、2代目司令官はヴェコスラヴ・ルブリッチ。
1941年4月、クロアチア独立国海軍の初代司令官にジュロー・ヤクチンが任命された(1943年4月以降の司令官はエドガル・アンゲリ)。しかしながら、イタリアがクロアチア海軍艦艇に制限を課したため、海軍は少数の小型艦艇しか保有せず、事実上存在しないに等しかった。その後イタリアが降伏(1943年9月)すると、ドイツは拿捕したイタリア海軍艦艇をクロアチアに譲渡し、クロアチア海軍は初めて名実を伴った。その外、以前にイタリアが課していた50tという軍艦の排水量制限も解除された。
クロアチア海軍には20隻の艦艇があり、敷設艦キービッツ(旧イタリア海軍 Ramb III、Italian ship Ramb III)[要検証 – ノート]、水雷艇 TA48(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍78T/1913年竣工→旧ユーゴスラビア海軍T3:1945年2月20日英空軍機により、トリエステで撃沈)、武装商船G102、G104、KM級魚雷艇8隻(うち1艇はパルチザンに投降)。また、水雷艇T7(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍96F/1916年竣工→旧ユーゴスラビア海軍T7:1944年6月25日Muter島付近で、英海軍の高速魚雷艇659/662/670により破壊)、機雷補給艇Mosor(1920竣工→イタリア海軍 Pasman:1944年12月31日Istu島付近で座礁、1954年解体)があった。
河川艦隊は2隻の河川用モニター艦であるボスナ(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍ケレシュ(Körös)→旧ユーゴスラビア海軍モラヴァ: 1941年4月11日自沈→クロアチアによって浮揚→1944年6月触雷により沈没)、サヴァ(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍ボドログ→旧ユーゴスラビア海軍サヴァ:1941年4月12日自沈→クロアチアによって浮揚→1944年9月9日再自沈)が主力であり、他に6隻のモーターボート(このうち少なくとも3隻はパルチザンに投降)があった。
他に、10隻の雑役船があった模様である。
1941年4月19日、クロアチア空軍(Zrakoplovstvo NDH)が創設され、ヴラディミル・クレンがその司令官に任命された(1943年9月14日〜1944年6月4日まではA.ラグレイ大佐が司令官)。同年、第1〜第3航空群が編成され、6月、戦利品である60機のユーゴスラビア機が譲渡された。1941年末までに空軍には4個群(12個飛行隊、95機)、1942年末までには160機が存在した。クロアチア空軍は、独ソ戦に参加し、対パルチザン戦を支援した。その後1943年9月1日までにクロアチア空軍は228機を保有した。しかし1943年中に空軍は56機を失い、飛行士達の中には厭戦感情が広まった。更に1944年夏には空軍から脱走が相次ぎ、壊滅状態となってしまった。
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