ウィリアム・ヘンリー・スミス(英: William Henry Smith, PC, FRS、1825年6月24日 - 1891年10月6日)は、イギリスの政治家、実業家。
W・H・スミスの社長として活躍した後、政界に転じ、保守党政権下で閣僚職を歴任した。
経歴
1825年6月24日、新聞や書籍の販売業者W・H・スミスの創設者ウィリアム・ヘンリー・スミス(英語版)の息子としてロンドン・グローブナー・スクエア(英語版)のデュークストリートに生まれる[3]。タヴィストックにあるグラマースクールを卒業した。
21歳の時(1846年)から父とともにW・H・スミスの経営に参画する。「鉄道狂時代」の中、駅の構内での書籍の販売業の拡大に成功し、1850年にはダブリン、バーミンガム、マンチェスター、リヴァプールに新聞の卸売倉庫を所持するに至った。1857年に父が引退し、代わって社長となる。やがて政治家への転身を希望し、政治活動の時間を作るために1864年にウィリアム・レスブリッジ(英語版)をパートナーとした。さらに1874年には政治に専念するため社長を辞職している[4]。
1868年から1885年にかけてウェストミンスター選挙区(英語版)選出の保守党所属の庶民院議員を務める。ついで1885年から死去する1891年まではストランド選挙区(英語版)から選出された[5]。
第2次ディズレーリ内閣では1874年から1877年まで財務政務次官(英語版)、ついで1877年から1880年まで海軍大臣(英語版)を務めた[1]。
1880年にディズレーリ保守党政権は総選挙(英語版)に敗れてグラッドストン率いる自由党に政権を奪われた。ディズレーリは、総選挙の敗北で崩れかけた保守党組織の引き締めを図るべく、スミスを委員長とする党改革委員会を設置させた。しかしスミスは委員会執行幹事のジョン・エルドン・ゴースト(英語版)と対立を深め、ゴーストをランドルフ・チャーチル卿率いる党内反執行部勢力「第四党(英語版)」に追いやってしまった[6]。1882年7月6日には野党保守党を代表し、イギリス半植民地エジプトで発生したウラービー革命の武力鎮圧を訴え、グラッドストン政権に腰を上げさせた[7]。
第1次ソールズベリー侯爵内閣では1885年6月から1886年1月まで陸軍大臣[1]、ついで1886年1月中のごく短期間アイルランド担当大臣(英語版)を務めた。第2次ソールズベリー侯爵内閣では1886年8月から1887年1月まで陸軍大臣[1]、1887年から死去する1891年にかけては第一大蔵卿、庶民院院内総務を務めた[5]。
1891年10月6日に五港長官の邸宅でケント州に位置するウォルマー城(英語版)で死去した[3]。66歳だった[5]。
栄典
家族
1858年にエミリー・ダンヴァース(彼女は1891年に初代ハンブルデン女子爵(英語版)に叙される)と結婚し、彼女との間に以下の6子を儲けた[5]。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク