ウィリアムの幼少期は英国・スペインの両方にまたがっている。兄ジョージ・ヘンリー(英: George Henry)が学齢に達したところで、家族はデヴォン・エクセターへ戻り、ウィリアムや兄弟はチャールズ・ロイド(英語版)が運営する学校に通った。1800年からウィリアムはティヴァートン(英語版)にあるブランデルズ・スクール(英語版)(英: Blundell's School)に通ったが、1802年には、事務所のあるカディスへ向かう父や兄の貿易旅行に同行するため退学している。兄弟は、父の事業の不安定さを反映するように、どちらもフルタイムの学校生活には戻らなかった[2]。
経歴
1806年、ウィリアムは伯父ジョージ・ギブズの会社「ギブズ、ブライト・アンド・ギブズ」(英: Gibbs, Bright and Gibbs)に事務員として弟子入りした。この会社はブリストル港(英語版)を拠点とし、操船技師の陸での代理人業を行ったほか、西アフリカでは奴隷貿易にも進出した[2]。
1850年代初頭の報告書では、チンチャ諸島(英語版)[注 7]で行われているグアノ採掘が、カリブ海での邪悪なアフリカ人奴隷労働を生んでいることがヨーロッパやアジアまで聞こえている、と始められている。1854年には、"The Superintendent of British trade in China"(意味:中国における対英国貿易最高責任者)が、中国人苦力をチンチャ諸島へ運ぶ船の運行や英国人の出入りを禁止し、1855年には英国議会がこれを承認して "The Chinese Passengers Act"(意味:中国人旅客法)が制定された[7]。
グアノ貿易で会社が得た利益は、1850年代で1年ごとに8万ポンド、1860年代で1年ごとに10万ポンドという金額であり、1850年代にはこの50%、1864年に資産整理を始めるまでの1860年代にはこの70%がウィリアム自身の報酬となっていた[注 8][11]。結果としてウィリアムはイングランドの非貴族で最も裕福な人間(英: The richest non-noble man in England)となり[5][12]、ヴィクトリア朝のミュージックホールで歌われた小歌では次のように冷やかされている[1]。
「ウィリアム・ギブズは分け前作った、外国の鳥の糞を売ってね」[注 9] "William Gibbs made his dibs, Selling the turds of foreign birds"
ウィリアムは自身のおじであるジョージ・シニアから船舶業の分け前を受け取っており、ジョージ・シニアが亡くなったところで、会社の名前を「ギブズ、ブライト&カンパニー」(英: Gibbs, Bright & Co.)と改めた。この会社はブリストル・リヴァプールを拠点としており、ジョージ・ギブズ・ジュニア(ジョージ・シニアの息子でウィリアムのいとこ[13]、経営担当)、ウィリアム・ギブズ、ロバート・ブライト(英: Robert Bright)が共同設立者となった[14]。会社は "Great Western Steam Shipping Company" (en) (意味:西部蒸気船会社)など、多数の会社の船舶斡旋業を取り扱った。この "Great Western Steam Shipping Company" は、イザムバード・キングダム・ブルネルの制作した SS Great Britain 号 (en) などを保有していた会社である。SS Great Britain 号がアイルランド西岸へ航行した後、会社は船舶を取得して全面的な修繕を施し、これから30年以上英国とオーストラリアを結ぶ移民船として運航させた。1882年に SS Great Britain 号は、ばら荷の石炭を運搬する帆船に作り替えられたが、1886年に船上で出火事故を起こした。この後フォークランド諸島のスタンリー港に入港して検査を行い、修理不能なほど損傷を受けていると判断された。船はフォークランド諸島会社(英語版)に売り払われ、1937年まで洋上に浮かべて石炭貯蔵用のハルクとして使われていたが、この年にスパロウ入り江(英: Sparrow Cove)まで牽引され、沈められて廃棄された。
聖ミカエルと全天使教会 (エクセター)(英語版) – この教会の司祭だったジョゼフ・トイ(英: The Reverend Joseph Toye)から要請を受けた後、ウィリアムはディナム山(英: Mount Dinham)への教会建設を支援して教会の拡張計画へ大いに資金提供した。ウィリアムの死後、教区は彼を讃える記念碑を作り、現在でも教会に残されている[1]。
セント・アントニー・カウリー(英: St. Antony Cowley) – 両親を偲んで、かなりの額を出資し建築を支援した。
セント・アンドルー・エクスウィック(英: St. Andrew Exwick) – 1872年に行われた教会の拡張工事に出資している。教区の分割を行うため土地が買い取られた際には、ウィリアムが住み良い司祭館の建設に資金提供している。最初の司祭は彼の甥ウィリアム・コバム・ギブズ(英: Rev. William Cobham Gibbs)で、次の司祭も甥ジョン・ロマックス・ギブズ(英: Rev. John Lomax Gibbs)だった。
1866年に発行された雑誌 "The Builder" に掲載されたティンツフィールドの写真(中央やや右寄りに見える時計塔は1935年に取り壊された)アーサー・ブロムフィールド(英語版)がデザインした教会堂。メイン・エントランスの中庭に位置するティンツフィールドの南側。邸宅は現在ナショナル・トラストによって管理されている
一方でウィリアムは、日常的にブリストル港へ仕事に向かう生活を続けており、自身の居住用にこの地区での住居を探していた。1843年、ウィリアムはサマセット州ラクソールにある「ティンツ・プレイス」(英: The Tyntes Place estate)の地所を買い上げたが、ここはブリストル中心部からわずか8マイル (13 km)という好立地であった[2]。1854年にはジョン・グレゴリー・クレイス(英語版)へハイド・パーク・ガーデンズの自宅の改装を依頼し、同時にティンツ・プレイスの改装を行ってティンツフィールドと名を改めた[2]。どちらの邸宅でも、クレイスは主要な部屋に木板や金象嵌、ニス仕上げされた木工・鋳造物、ゴシック風の暖炉を導入した[2]。
ティンツフィールドには元々古いファームハウスがあったが、これは取り壊され、邸宅自体はギブズが地所を購入する30年前に再建されている。再建後、ウィリアムが購入する直前に、近隣のネイルシー(英語版)に住むロバート・ニュートン(英: Robert Newton)によって改築作業も行われている。1863年から1865年にかけ、建築家のジョン・ノートン(英語版)や建築業者のウィリアム・キュービット&カンパニー(英語版)の手で、ティンツフィールドの大改築が行われた。これにより邸宅はアングロ・カトリック派によるゴシック・リヴァイヴァル建築・カントリー・ハウスとして手本となるようなものへ生まれ変わった。ノートンのデザインは元々の家を包み込むように作られ、2つの新しいウィング(翼棟)、新しい階や塔が加えられている。ノートンは複数の歴史的時代を経て邸宅が作られたことを見せるデザインを行い、建築様式の連続性を再獲得した様子を強調した。結果として、屋敷の壁はいくつかが無地のまま残された一方で、他の壁にはゴシック様式や自然主義的要素をミックスした彫刻が成された。正面・南側の外壁にはバース石(英語版)による日覆いが1組付けられたが、裏手の西側には2組付けられている。ノートンはデザインの中へ屋根を劇的に改装して協調させる試みを取り入れたが、結果として屋根は非対称な段々が付いた形になっている。改装されたティンツフィールドは、ブランチのいとこで小説家のシャーロット・ヤングによって「心の中の教会のよう」(英: "like a church in spirit.")と評された[2]。
ウィリアムが地所に最後に加えたのは教会堂で、デザインはアーサー・ブロムフィールド(英語版)に委託され、邸宅の北側に1872年から1877年にかけて建設された。巨大な地下聖堂も設置され、当初ウィリアムはここへ埋葬される予定だった。しかし地元の全聖人教会(英語版)の司祭や、教会の支援者だったゴージズ家(英語版)の強硬な反対に遭い、バースおよびウェルズ地区主教 (Bishop of Bath and Wells) は、ティンツフィールドの教会堂の聖別を認めないとの判断を下した。これは地元教会が、ウィリアムの建てた教会に地元の信者を奪われるのではないかと危惧したためである。この判断にもかかわらず、教会堂はティンツフィールドの暮らしの中心となり、1日2回家族や来客による祈りが捧げられていた[2]。また夕べの祈りが終わった後には、椅子に座った家長・ウィリアムが、家族や来客全員に代わる代わるおやすみの挨拶をさせていた。改築作業の完了を祝い。ヤングは教会堂をティンツフィールドの改築計画になくてはならないもので、「家の財産[である地所全体]にリトル・ギディング(英語版)そっくりの雰囲気」を与える(英: providing "a character to the household almost resembling that of Little Gidding")と評した[2]。このリトル・ギディングは、ケンブリッジシャー・ハンティンドンシャー(英語版)に位置しており、チャールズ1世即位時に、19世紀のアングロ・カトリックを大いなる理想と考えていた、ニコラス・フェラー(英語版)のふるさとである。
1839年8月1日、ウィリアムはグロスタシャー・フラックスリー(英語版)にある聖処女マリア教会(英: St Mary the Virgin church)でマティルダ・ブランチ・クロウリー=ブーヴィー(英: Matilda Blanche Crawley-Boevey)と結婚した。グロスターで生まれたブランチは、クロウリー=ブーヴィー準男爵家(英語版)の第3代準男爵・トーマス・クロウリー=ブーヴィー(英: Sir Thomas Crawley-Boevey, third baronet、1769年 - 1847年)と、メアリー・アルビニア(英: Mary Albinia、1835年没)の間に生まれた3番目かつ末の娘だった。また彼女の母はイギリス陸軍の技術者で地図製作者のトーマス・ハイド・ペイジ(英語版)の長女だった。ブランチの父はヘンリー・ギブズの妻キャロラインの1番上のいとこだった(キャロラインの父がチャールズ・クロウリーである)。ウィリアムとブランチの間には次の7人の子供が生まれた[15]。