1830年、キャサリン・マリア・ヘイリーと結婚。1831年ごろ、ニューヨークに引っ越した。一時期、妻の両親と同居していたと思われる。1833年夏までに再び引越し、ニューヨーク州オチゴ郡に移った。結婚前には兄の機械工場で働いていたことがあり、そこで機械についての商売を学んでいた。オチゴ郡では Fly Creek という村で George Pomeroy の機械工場で働くようになった。
38歳のとき、2人の妻と8人の子がいたが、全員でニューヨークに戻り、その木彫機械を売り込もうとした。まず、実働する試作品を製作するため、A. B. Taylor & Co. という工場で組み立てを行った。しかし試作品が完成して間もなく、工場のボイラーが爆発して試作品は灰燼に帰した。爆発する少し前、ボストンの機械工場の経営者オーソン・C・フェルプスが試作品のことを聞きつけていた。彼は彼の工場でその機械を組み立ててみないか、とシンガーを誘った。
ミシンの大量生産が始まり、I. M. Singer & Co は1856年には2,564台を製造、1860年にはニューヨーク市内に新たな工場を構え13,000台を製造した。ミシンは主に仕立て屋が使う産業機械として販売されていたが、家庭用の小型ミシンも販売されるようになっていった。シンガーはヨーロッパにも進出し、グラスゴー近郊の Clydebank にも工場を建設した。アメリカを本拠地とする多国籍企業となり、他にパリやリオデジャネイロにも支社を設けた。
シンガーは約1億4千万ドルの遺産と、その分配方法を指示する2つの遺言状を残した。メアリー・アンは "Mrs. Singer" は自分だとして裁判を起こした。結局、イザベラが法的な未亡人として認められた。イザベラは1879年、オランダの音楽家 Victor Reubsaet と結婚しパリに移住。1887年に Reubsaet も亡くなると、1891年に Paul Sohège と結婚した。
アイザックの18番目の子ウィナレッタ・シンガーは1887年、22歳のときに Louis de Scey-Montbéliard と結婚。1891年に婚姻の無効が認められ、1893年にはエドモン・ド・ポリニャック公と結婚した。彼女はフランスのアバンギャルド音楽のパトロンとなった。例えばエリック・サティの作曲した Socrate(1918年)は、彼女の依頼によるものだった。彼女はレズビアンでもあり、1923年以降は Violet Trefusis と関係を持つようになった。もう1人の娘イザベル=ブランシュ(1869年生)は Jean, duc Decazes と結婚(娘は Daisy Fellowes)。イザベルは1896年に自殺した。ウィナレッタとイザベルの兄弟パリス・シンガーはイサドラ・ダンカンとの間に子をもうけている。もう1人の兄弟ワシントン・シンガーは University College of the South-West of England の後援者となり、その学校が後にエクセター大学となった。同大学の建物の1つはワシントン・シンガーの名を冠している。