黒田 吉之(くろだ よしゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての筑前国福岡藩[1]の世子。左京[2][3]。
天和2年(1682年)6月、4代藩主・黒田綱政の長男として江戸で誕生[2][3]。母は立花忠茂の娘(立花鑑虎の養女)[2]。初名は政之(まさゆき)[2]。
元禄4年(1691年)2月15日、10歳のとき、将軍・徳川綱吉に御目見得する[2][3]。同9年(1696年)11月26日、元服し、松平姓と綱吉の偏諱を与えられ、吉之に改名した[2][3]。また、従四位下大隅守に叙任した[2][3]。
元禄12年(1699年)7月、大和国郡山藩藩主・本多忠常の養女(三河国挙母藩藩主・本多忠利の娘)と婚約、宝永2年(1705年)9月、結婚した[3][2]。
同年2月、初めて福岡に入り、同年4月には、父とともに長崎に赴いた[3]。
宝永7年(1710年)7月3日、父・綱政に先立って死去した[2][3]。29歳[2][3]。法号は範雄道洪乾光院[2]。祥雲寺に葬られた[2]。
代わって、弟・守山政則(宣政)が嫡子となった[3]。
遺物として、書と、正室本多氏の娘との婚礼調度一部が今日まで伝わり(黒田資料)、福岡市美術館に所蔵されている。また、広尾祥雲寺にある吉之の墓標は、藩祖の黒田長政に次いで巨大である。