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この項目では、ミュージシャンについて説明しています。俳優については「高木英一 (俳優)」をご覧ください。 |
高木 英一(たかぎ えいいち、1953年3月15日 - )は、日本の音楽家。近田春夫&ハルヲフォンのベーシストとして知られる。
人物・来歴
1953年(昭和28年)、東京都に生まれる。立教高等学校時代の同級生に高橋幸宏がいた[1]。
1972年(昭和47年)、バンド「ゲッセマネ」のベース担当だったが、高校の先輩・恒田義見に誘われ、近田春夫に説得され、「ゲッセマネ」を辞め、ハルヲフォン(後の近田春夫&ハルヲフォン)に加入[1]。1975年(昭和50年)、ハルヲフォンの企画盤シングル『FUNKYダッコNo.1』でレコードデビューを果たす[2]。同バンドのメンバーとして、TBSテレビ『ぎんざNOW!』に近田らとレギュラー出演、同時期である1977年10月に放送開始した『近田春夫のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)にレギュラー出演、『恋のグンギンナイト』など近田と合唱[3]。1978年(昭和53年)、ハルヲフォンのアルバム『電撃的東京』に収録された山本リンダのカバー曲『きりきり舞い』でリード・ボーカルをとり、同曲は『きりきりまい』としてシングルカットされた[4]。
1979年(昭和54年)、ハルヲフォンが解散になると、同年1月に解散したバンド・ガールズのイリア (奥野敦子)とバンドを組む[1]。バンド名はたまたまセッション・バンド、やがてイリアは近田から声をかけられ、同年8月、近田春夫&BEEFの結成に参加。高木は、翌1980年(昭和55年)、榊原郁恵のバックバンドのギタリスト山津とおる、ウガンダ・トラの実弟でドラマーの佐藤昭二とスリーピースバンド「ストライク」を結成したが、半年ほどで活動停止。同年には、伊藤政則、大貫憲章、小倉エージ、森直也ら音楽評論家たちが「Do it OURSELVES」を結成、キングレコードからアルバム『評論家ロック』を発表。楽曲提供と演奏で参加。
1981年(昭和56年)3月21日、近田がプロデュースするザ・ぼんちの2ndシングル『ラヂオ - New Musicに耳を塞いで』のB面『噂のドンブリカンジョー』を作詞・作曲。同年、イリアのいたガールズのリタ(野元貴子)の新バンド・ピンナップスのデビュー・シングルを近田がプロデュースしたが、1stアルバム『ピンナップス』(Invitation)は高木がプロデュースした。ピンナップス解散後の1983年(昭和58年)、野元と近田とともにスリーピースバンド「ゲートボール」を結成、シングル『スマートなゲートボール』と同名アルバム『スマートなゲートボール』をリリースした。
2006年(平成18年)6月15日には、発掘されたライヴ音源を集めたCDアルバム『近田春夫&ハルヲフォンLIVE! 1975 - 77』がインディーズのCARAWAY RECORDSから発売。それに先立つ同年4月29日 - 30日、近田・恒田と3人で、近田春夫&ハルヲフォン・リローデッド名義で再結成、ライヴ活動を行った。
ディスコグラフィ
シングル
アルバム
※ハルヲフォン・メモリアルとリメンバー・グループ・サウンズが未発表音源だという情報は誤り(要修正)。
楽曲提供
- ザ・ぼんち 『噂のドンブリカンジョー』『ザ・レクイエム』 - 作詞・作曲
- Do it OURSELVES『ドリーム』(作詞大貫憲章・キャンディ田中)、『ビッグシティ』(作詞・作曲大貫憲章) - 作曲
フィルモグラフィ
脚注
出典
関連項目
外部リンク