青木 喬(あおき たかし、1898年(明治31年)8月9日[1][2] - 1991年(平成3年)4月10日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
東京府出身[1][2][3]。医師・青木三奎の息子として生まれる[1]。
1911年(明治44年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。東京高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[1][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる[1][3]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業した[1][2][3]。陸大在学中の1926年(大正15年)1月、航空兵科に転じ航空兵中尉となる[1]。
飛行第8連隊付、参謀本部付勤務、参謀本部員、アメリカ駐在などを経て、1932年(昭和7年)2月から翌年12月まで、アメリカ大使館付武官補佐官を務めた[1]。帰国後、下志津陸軍飛行学校教官となり、陸軍航空本部員、陸大教官を歴任[1][3]。1938年(昭和13年)9月、第21軍参謀に就任し日中戦争に出征[1][2][3]。陸大教官を経て、1939年(昭和14年)8月、航空兵大佐に進級[1]。翌年8月、航空本部第6課長兼陸軍航空総監部第4課長に就任した[1][3]。
1941年(昭和16年)9月、陸大教官となる[1][3]。1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進し第8飛行団長に就任し太平洋戦争に出征[1][2][3]。第6航空軍参謀副長となり福岡で終戦を迎えた[1][2][3]。1945年(昭和20年)11月、予備役に編入となった[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
親族
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、5頁。
- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』14頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』437頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。