阪谷 希一(さかたに きいち、1889年(明治22年)5月15日 - 1957年(昭和32年)11月6日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、満州国総務庁次長。父親は元大蔵大臣で子爵の阪谷芳郎。母方の祖父は渋沢栄一。
経歴
大蔵官僚阪谷芳郎と妻の阪谷琴子の長男として生まれる。母方の祖父に渋沢栄一。
第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治科に入学。在学中に高等文官試験に合格し、1914年(大正3年)に卒業した。卒業後は日本銀行に勤務し、本店、名古屋支店を経て、1920年(大正9年)からはロンドン支店に赴任した。1924年(大正13年)日銀を退職し、関東庁に転じ、事務官・財務部財務課長として旅順に赴任[4]。1929年(昭和4年)に拓務省勤務となり帰国[4]。拓務書記官、資源局事務官、拓務大臣秘書官、拓務省殖産局長心得・南満洲鉄道監理官・東洋拓殖監理官を歴任した。
退官後は1932年(昭和7年)に満洲国財務部に招かれ、総務庁次長を務めた。1935年(昭和10年)に退任した後は、満洲国協和会次長、満洲中央銀行監事に就任し、翌年には南満洲鉄道株式会社理事となった。1939年(昭和14年)からは中国聯合準備銀行顧問を務めた。
1943年(昭和18年)1月9月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[5][6]、1946年(昭和21年)4月24日に辞職した[7]。
1957年11月6日、死去。満68歳没(享年68)。墓所は谷中霊園。
栄典
親族
系譜
- 阪谷家(阪谷家系図)
- 2代四郎兵衛の頃、延宝8年(1680年)検地帳に、2町6反7畝2歩(2.65ha)の田と1町5反4畝2歩(1.53ha)の畑を所有とある。3代治兵衛の頃には、田畑4町9反8畝(4.94ha)の地主になった。5代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。2町7反6畝7歩(2.74ha)の田と1町1反9畝7歩(1.19ha)の畑を所有して高合計24石となった。延享2年(1745年)に酒造を始め、天明5年(1785年)に250石仕込んだが、天明の飢饉により同6年に半減、同7年には3分の1まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延2年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。
┏喜左衛門
四郎兵衛━━四郎兵衛━━治兵衛━━┫
┗左治兵衛━━甚平━━甚兵衛宗房━━三五八良哉━━素三郎(朗廬)
┏━礼之介
┃
┣━次雄
(朗廬) ┃
素(素三郎)━━╋━達三
┃
┣━芳郎━━━━━┳━希一━━━━━┳━正子
┃ ┃ ┃
┗━時作 ┣━敏子 ┣━朗子
┃ ┃
┣━和子 ┣━芳直━━━━━┳━素子
┃ ┃ ┃
┣━俊作 ┣━理子 ┣━英子
┃ ┃ ┃
┣━八重子 ┣━順子 ┣━民子
┃ ┃ ┃
┣━千重子 ┣━春子 ┗━綾子━━━━━┳━直樹
┃ ┃ ┃
┗━総子 ┗━秀直 ┗━裕璃
脚注
- ^ a b 阪谷芳郎の家庭教育伊藤真希、愛知淑徳大学大学院現代社会研究科、現代社会研究科研究報告6、2011-03-04
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
- ^ 『官報』第4797号、昭和18年1月12日。
- ^ 『官報』第5794号、昭和21年5月11日。
- ^ 『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。
参考文献
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版(上)』人事興信所、1939年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1960年。