長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 - 2004年7月23日)は、日本の美術家、日本画家。本名は義治(よしはる)。
精密な描写をもとにしたデフォルム、また琳派や西洋の油彩絵画とも一線を画したマチエールに強いこだわりをもった独特な画風を確立した。作品は専ら日本美術院展覧会への出品作であり、日本美術院同人、同評議員となった。
1916年(大正5年) 9月25日、長野県下水内郡飯山町(現飯山市)に生まれる。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)卒業。
15歳で地元の細野順耳(菊池契月の兄)に学び、1933年(昭和8年)上京し、18歳で松岡映丘門の吉村忠夫に入門し大和絵を専攻。 1952年(昭和27年)36歳の時に吉村忠夫の急逝をうけ、日本美術院・同人の中村貞以(なかむらていい、1900年 - 1982年)に入門し、日本美術院展覧会を目指し研鑽を重ねる。
1953年(昭和28年)、37歳で第38回 日本美術院展覧会に〈庭〉が初入選。以後、51年間にわたり春・夏の院展に連年入選。1955年(昭和30年)に、39歳で日本美術院院友。
1958年(昭和33年)から奨励賞を18回受賞。1961年(昭和36年)から春季展賞を2回受賞する。
1972年(昭和47年)に、56歳で日本美術院特待。1982年に、66歳で日本美術院同人。1989年に、73歳で日本美術院評議員。
1990年(平成2年)に「月(石山)」が、日本美術院展覧会内閣総理大臣賞を受賞。1994年(平成6年)に「足柄の山姥」が、日本美術院展覧会文部大臣賞を受賞。
東大阪市喜里川町に居を構え創作活動に没頭するなか、師の中村貞以が主催した画塾「春泥会」を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾「含翠(がんすい)」として継承。 社中や同僚との勉強研鑽につとめる一方、日本美術院展覧会を目指す日本画家の育成に努めた。
含翠の門下には、清水達三・松岡政信・寺本郷史・小沢道治・藤本久美・寺田真規・長谷川笑子・浅田彩・居垣瑞生・磐城佳子・宇田和代・宇田宏海・大草肇・神森智代・北尾かおり・小林檀・新谷慶子・進藤政子・住友徳成・高木康子・田中重造・中尾隆晴・中森あゆみ・成川誠一郎・濱田君江・日高正子・堀内康子・松尾喜久子・松田知子・松原久美子・三宅美里・宮澤千恵子・柳本富子・山崎容子・油谷嘉之・渡邊妙子 諸氏の名が連なる。[1]
2004年(平成16年)7月23日、大阪府吹田市内の病院で心不全のため逝去。享年87。
作品の多くは、飯山市美術館・長野県立美術館・井原市立田中美術館・財団法人小谷城郷土館ほかに収蔵されている。
(出典:『「画人長谷川青澄追悼展」図録』、飯山市美術館発行)
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