1923年6月には中国の旅券でアメリカに留学し、北長老派教会の設立したパーク大学(英語版)に入学し、1927年に卒業すると、シカゴ大学大学院の研究生となり、1928年にコロンビア大学師範大学院で教育行政学の修士号を取得し、ニューヨーク神学校宗教教育学科で神学を学んだ。学業を継続する一方で、アメリカにおいても抗日独立運動を継続した。ニューヨークで旧友の黄エスタと再会すると、在米同胞女性らを糾合して「槿花会」を結成し、会長となった。同年2月12日にはニューヨーク韓人教会で開催した発足式で、太極旗と槿花旗(ムクゲの花をあしらった旗)を掲げた。また米国各地の韓人同胞有志が発刊した新聞『三・一申報』の発起人となった。その創刊趣旨書には「大韓民国の独立を完成するため韓民族の自覚を促し民論を喚起して大同団結を進める」とある。またAmerican Association of University Womenの国際関係フォーラムにおいて韓国の独立のために国際社会の協力を訴えた。1929年には韓国学生連盟副会長に推され、安昌浩の主催する在米韓国人団体の興士団(朝鮮語版)」に入会し、母国の将来の独立に備えた。1930年の「興士団」第17回ニューヨーク大会において「大韓民国と興士団」と題する講演を行った。
帰国
1932年に合衆国政府が認めた留学の期限が満了したため、カナダ宣教師Louise H. McCullyの協力のもと、バンクーバーからハワイ経由で朝鮮に戻ったが、逮捕され、取り調べを受けた。その後も朝鮮総督府の厳重な監視下に置かれた。翌年、就職禁止命令を解除され、マルタ・ウィルソン(Martha Wilson)女子神学校の教授として神学を教え、女性伝道師の育成に尽力する一方、黄エスタらとともに、キリスト教の伝道に基づく農村啓蒙を実践したが、1943年には皇民化政策の徹底ため、朝鮮のミッション・スクールが一斉に強制閉校となった。1944年に平壌の病院で死去し、遺骨は遺言にしたがって火葬された後、大同江に散骨された。没後の1967年に建国勲章愛国章が追贈された。