金一煥 (軍人)

金 一煥
生誕 1914年8月15日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮江原道鉄原郡
死没 (2001-10-01) 2001年10月1日(87歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル
所属組織  満洲国軍
大韓民国陸軍
軍歴 1937-1945(満州国軍)
1946-1954(韓国陸軍)
最終階級 上尉(満州国軍)
中将(韓国陸軍)
除隊後 長官、韓国在郷軍人会会長、社長
墓所 国立大田顕忠院将軍第1墓域9号
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金 一煥(キム・イルファン、김일환1914年8月15日[1]-2001年10月1日)は大韓民国軍人政治家本貫慶州金氏[2]創氏改名時の日本名金原一雄[3]

経歴

1914年、江原道鉄原郡に生まれる。1933年、ハルビン高等商業学校卒業[3]。1936年6月、中央陸軍訓練処入学[3]。ハルビンの第4教導隊で基礎軍事訓練を経て訓練処軍需区隊で教育を受けた[3]。1937年9月、中央陸軍訓練処第5期卒業[3]。見習軍官を経て同年12月に少尉任官[3]。騎兵第38団に配属[3]。後に新京の陸軍軍需学校第1期卒業[3]。1941年3月、軍需中尉[3]。1942年7月、第4軍管区司令部に通訳として勤務。1943年3月、上尉[1]。第7管区司令部の補給部隊である行李部隊に服務[3]第2次世界大戦終戦時は陸軍軍需上尉。ソ連海軍の捕虜として佳木斯に輸送される途中で脱出し、12月末に平壌に到着した[3]。1946年3月、家族と共に越南してソウルに到着[3]

1946年4月25日付で軍事英語学校卒業(軍番10093番)[4]

1946年から1948年まで陸軍本部財務局長[5]

1948年、国防部第3局長。

1950年、任准将。

1951年6月、国防部次官、任少将。

1953年11月、陸軍本部管理部長。

1954年5月、任中将、予備役編入[1]。9月、商工部長官。

1957年、在郷軍人会会長。

1958年、内務部長官。

1959年、交通部長官。

1960年5月、不正選挙事件により逮捕され、1961年12月、懲役2年6か月を宣告される[1]

出所後の1963年1月、梨樹産業社長。

1965年12月、国際観光公社総裁。

1970年4月、韓国電力公社社長。

1966年、在郷軍人会会長。

2008年4月29日に民族問題研究所親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[6]

出典

  1. ^ a b c d 世界政経調査会 1966, p. 47.
  2. ^ (4)경주 김씨(慶州金氏)-1,736,798명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月5日). 2022年8月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 567.
  4. ^ 佐々木 1976, p. 89.
  5. ^ 佐々木 1976, p. 421.
  6. ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000889220 2021年5月1日閲覧。 

参考文献

  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。 
  • 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 1. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-03-2 
  • 世界政経調査会 編『韓国・北朝鮮人名辞典』世界政経調査会、1966年6月20日、47頁。NDLJP:2973356/28 ref=CITEREF世界政経調査会1966。 

外部リンク

公職
先代
姜聲邰
大韓民国の旗 大韓民国商工部長官
第9代:1955.9.16 - 1958.8.27
次代
具鎔書
先代
閔丙祺
大韓民国の旗 大韓民国内務部長官
第17代:1958.8.27 - 1959.3.20
次代
崔仁圭
先代
崔仁圭
大韓民国の旗 大韓民国交通部長官
第8代:1959.3.20 - 1960.4.28
次代
石常玉
先代
申泰英
李成浩
大韓民国の旗 大韓民国在郷軍人会会長
第5代:1957.1.17 - 1959.11.25
第13〜17代:1966.1.12 - 1975.2.25
次代
李瑄根
李孟基

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