1968年 第6回 東京国際版画ビエンナーレ 国際大賞受賞[2]
野田 哲也(のだ てつや、1940年(昭和15年) 3月5日 - )は、日本の版画家。日本版画界を代表する版画家の1人[4]。東京藝術大学名誉教授[1] 。熊本県出身。写真を使ったシルクスクリーンと木版を組み合わせて自身の日常の断片を描いた日記シリーズによる作品で知られる。洋画家の野田英夫は、伯父にあたる。
東京国立近代美術館[10] / 京都国立近代美術館[10] / 国立国際美術館[10] / 東京都現代美術館[11] / 和歌山県立近代美術館[12] / 三重県立美術館[6] / ニューヨーク近代美術館[13] / シカゴ美術館[14] / ボストン美術館[15] / サンフランシスコ美術館(英語版)[16] / ロサンゼルス・カウンティ美術館[17] / 大英博物館[18]
日々の生活の記録である日記をテーマとして、1968年から今日まで40年以上にわたり作品を制作。作品モチーフとなるのは、家族や知人の姿、子どもの成長、旅先で目にした風景といった日常の断片。目にとまったものを撮影し、その写真に鉛筆や筆などで手を加えた後、謄写ファックスにかけてできる孔版と、木版とを組み合わせることなどによって制作している[24][25]。
『日記』を思い立った契機について「芸大時代、課題の裸婦を一生懸命に描いたが、なにか絵空事のようで、それではいけないという気がした」という。「決定的に版画で行こうと思ったのは、学部の科目でやっていた木版に加えて謄写ファクス製版機で写真を使い始めたころ」だ。 卒業4年後の1968年、写真と伝統的木版画の背景の大胆な組み合わせは、初出品の東京国際版画ビエンナーレで国際大賞を受賞。以後、すべての野田作品は無題で、代わりに「日記」という言葉と日付が記されている[26]。
「日本美術 大英博物館所蔵主要作品」(1990年)には仏教美術から20世紀版画が紹介されているが、野田の3歳半の娘リカをテーマとする版画「日記 : 1978年6月24日」の説明には「野田の作品はすべて題名には日記の日付しかなく、そのほとんどが作者自身が写した写真を出発点としている。この意味で極めて個人的な作品である。それにもかかわらず野田は他の日本人よりも国際的に高い評価を得ている」と記されている[27][28]。
野田作品の技法は、木版と謄写版によるシルクスクリーン。木版は、水性絵の具を使う日本の伝統的技法をベースにしている。浮世絵の主版 = 黒の輪郭線の版 = をガリ版で、写真を使っている点は違うが、あとは色版を重ねて行く。浮世絵の摺りと同様に木版の背景が摺られ、つぎに色版が浮世絵同様に見当をつけて一点一点バレンでインクを浸透させて埼玉県の小川町産の和紙の上に重ね合わされて行く[24][26][29]。ダニエル・ベルは「野田は初期教育から完全に浮世絵の伝統を念頭に置いている」と指摘している[29]。
ドリット夫人はイスラエル人。東京国際ビエンナーレ大賞[2]で28歳の野田が一躍有名になった家族の肖像ー「日記 1968年8月22日」が作られたのは、野田が大学で小野忠重の助手をしていたころ[24]。夫人の妹の陶芸研究室研究生が出入りしていたが、そのうち姉の後のドリット夫人が出入りするようになったという[26]。大賞作品について夫人は「驚きましたが、光栄、自分がモチーフになっているということよりも、純粋に美術作品としてみていた」[30]。
ベルは野田版画の独創性について「3点に要約される。見事なまでに一貫した主題、画面の組み立てと構成、そして意識的に浮世絵を範としながらも自分の創意を実現するために採用した斬新な技法」だと述べている[29][31]。またサンフランシスコ美術館の専任キュレイター、ロバート・フリン・ジョンソン(英語版)は「この時代の最も独創的で革新的、そして興味をそそられる日本の版画家」と記している[32]。