那波 活所(なば かっしょ、文禄4年(1595年) - 正保5年1月3日(1648年1月27日))は、江戸時代初期の儒学者。名は信吉・方・觚。字は道円。通称は平八。
播磨国姫路の豪農の家に生まれ、京都の銅駝坊に移り、藤原惺窩に師事した[1]。林羅山・松永尺五・堀杏庵とともに「惺窩門四天王」の一人と称される[1]。1623年(元和9年)肥後国熊本藩主加藤忠広に仕えたが、1630年(寛永7年)に致仕[1]。加藤家改易の後、1635年(寛永12年)から紀伊国和歌山藩主徳川頼宣に儒臣として仕えた[1]。京都銅駝坊の自宅で没した[1]。
那波木庵は長男、『学問源流』などを著した那波師曾(魯堂)は玄孫にあたる[1]。後世の孫には、京都大学教授で東洋史学者の那波利貞がある。
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