越智 雲夢(おち うんぼう)は、江戸時代中期の儒学者・医者。江戸幕府典医養安院曲直瀬氏5代目。諱は正珪(まさあきら[1])。幼名は亀次郎[1]。字は君瑞。本姓は越智氏。別号に懐仙楼、神門叟等。
幕府に医術を以って仕える傍ら、荻生徂徠に古文辞学を学び、服部南郭、本多忠統等と交流して詩文に興じた。
初代曲直瀬正琳が伊予国河津氏庶流一柳氏出身であったため、その本姓越智氏を称した。雲夢の号は、古代楚にあったとされる仙境雲夢沢(中国語版)による[2]。
懐仙楼の号は友人の提案によるものである。ある日、普段のように雲夢邸で友人等が思い思いに過ごしていたところ、雲夢が階上の書斎の号を募集した。ある人が「仙人は楼居す」の故事に基づき「懐仙」を提案した。雲夢は「こんな狭い所に仙人も寄り付くまい」と答えたが、その時たまたま小鳥が飛来したので、西王母の使いだという話になり、「懐仙」の号が採用されたという[3]。
神門叟の号は、曲直瀬氏代々の屋敷が神田橋門外(千代田区内神田一丁目)に与えられていたことによる。その他の号に雪翁、松月館、雨花庵がある[1]。
貞享3年(1686年)1月に生まれた[4]。正徳頃から服部南郭等と交遊し、荻生徂徠学中に初期から参加した[5]。
医業においては、享保9年(1724年)に家督を継ぎ、享保15年(1730年)法眼となった後、寛保3年(1743年)病のため致仕した[4]。延享3年(1746年)3月25日死去し、代々の墓所、麻布仙台坂上天真寺に葬られた[4]。
温厚な性格で、家人を叱ることがなく、弟子は常々「主人について見ないものが3つある。慍顔、詰語、鄙吝である。」と語っていた[6]。また、神田門外の代々の屋敷においては、父に倣い、江戸城のある西方に足を向けて寝ることを決してしなかった[6]。
蔵書家として知られ、正琳以来の蔵書は神門文庫と称された。また、中国絵画も蒐集し、本多忠統と古画の交換を行っているほか、享保2年(1717年)2月には自邸に狩野派の画家を招いて古画の展覧会を催している[7]。また、琴を嗜んだ。