西村 小楽天(にしむら こらくてん、1902年12月4日 - 1983年2月25日)は日本の弁士、漫談家、歌手の司会者。本名は田川実(たがわ みのる)。
経歴
東京府深川区(現・東京都江東区)生まれ。本人によると、実家は洲崎遊廓の引手茶屋だったという。
子どもの頃から活動写真に親しみ、大正5年(1916年)に活動弁士の西村楽天へ入門[注釈 1]。同7年(1918年)には巡業先の台湾で師から「小楽天」の名を認められる。東京へ戻ってからは浅草の帝国館で弁士を務める。その後は、浅草を中心に東京各地の松竹系映画館で、主に洋画の説明に活躍した。
映画がトーキーの時代を迎えた昭和10年(1935年)には、弁士・楽士の全員解雇を通知する松竹側に対し、静田錦波[注釈 2]らとともに3月19日から28日にかけてストライキを実行している[5][注釈 3]。
一時は漫談家となったが間もなく歌手の司会者に転じ、東海林太郎や霧島昇の司会を担当した。戦後は岡晴夫や美空ひばりの専属司会を務める一方、無声映画の鑑賞会などで弁士として出演している。
昭和58年(1983年)2月25日、心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去[7]。満80歳没。
長男の西村浩二(1930年-1991年)も司会者となり、日本司会芸能協会理事長を務めた[8][9]。
著書
- 『私は昭和の語り職人』エイプリル・ミュージック、1978年。
注釈
- ^ 東京府豊島師範学校に在学していたが、弟子入り後に中退している。
- ^ 争議委員長として会社側と交渉にあたっていた。
- ^ 28日の交渉で、退職手当などについて労使双方が合意に達し、ストは終結[6]。松竹に在籍する弁士・楽士の全員解雇はそのまま実施されることとなり、結果的には会社側の勝利で終わった。
出典
- ^ 「松竹争議団遂に総罷業に入る 会社はトーキーで対抗」、読売新聞1935年3月20日付夕刊(19日発行)、2頁
- ^ 「松竹争議 円満解決」、読売新聞1935年3月29日付朝刊、7頁
- ^ 読売新聞1983年2月27日付朝刊(東京本社版)、23頁
- ^ 毎日新聞1991年12月10日付朝刊(東京本社版)、27頁
- ^ 読売新聞1991年12月10日付朝刊(東京本社版)、31頁
参考文献