西境の赤表紙本(Red Book of Westmarch、その由来からセイン本、セインの本とも[T 1])とは、J・R・R・トールキンの中つ国の伝説体系における枠物語の役を担う、ホビットによって書かれたとされる架空の写本である。これは発見された文書という体裁をとった演出の実例[1]であり、トールキンの描いた伝説体系を説明する文学的装置といえる。作中では、この本には『ホビットの冒険』と『指輪物語』の出来事での登場人物の経験の叙述が収集されており、それをもとにトールキンが各作品を著したとされている。本の名称は、装幀の革とケースに赤色が用いられたこと、中つ国のホビット庄の隣に位置する西境に伝えられたことに由来する。
『ホビットの冒険』においてトールキンは、「ホビット」である主人公ビルボ・バギンズが、旅から帰ったあと「むかしの記録」を著していると書いた。そしてビルボは自身の著書を「ゆきて帰りし物語、あるホビットの休暇の記録(There and Back Again, A Hobbit's Holiday)」と名付けている[T 2]。小説『ホビットの冒険』の原題は、たしかに「そのホビット――ゆきて帰りし物語――[T 3](The Hobbit or There and Back Again)」である[T 4]。
この年鑑は、トゥック一族の歴史における誕生、死亡、結婚、土地の売買あるいはその他のできごとを記録した。こうした情報の多くは、のちに西境の赤表紙本にも含まれた。トールキンは、この本はGreat Writ of Tuckboroughあるいは「黄皮表紙本」としても知られた、と書いており、本が黄色い革ないし他の黄色の材料で装幀されていたことを示唆している。トールキンはおそらく赤表紙本に関連している他の歴史的文書にもいくつか言及しているが、そうした文書が赤表紙本のなかに収録されたかどうかは不明瞭である。そのような文書としては、『西国年代記』(あるいは「代々の物語」。『指輪物語』追補編収録の年表に用いられた)や、フロドの旅の仲間メリアドク・ブランディバックが著したとされ、作中でパイプ草の解説に用いられた『ホビット庄本草考』がある[T 1]。
「往きて還りし物語」という表題は、典型的なホビットが冒険というものに持つ見解を示すものである。フロドは『指輪物語』を通し、ギリシャにおける「ノストス(νόστος 、英雄的な帰還)」の概念と同様に、「往き、そして還ってくる」ことを理想とみなしている[5]。トールキン研究者リチャード・C・ウエスト(英語版)の見るところでは、トールキンの「赤表紙本」は学問に対する模倣であるが、学者が「もっともらしい出典」と呼ぶであろうものとして機能し、しかしその与える権威は古くも身近でもない近代的な学術研究における神秘性の訴求にもとづいたものである[6]。トールキンにより『ホビットの冒険』を「西境の赤表紙本」の一部として位置づけるために使われた、発見された文書であるという体裁[1]は、サミュエル・リチャードソンの小説『パミラ、あるいは淑徳の報い』(1740年)や『クラリッサ』(1747-1748年)以来、英文学で使われてきた形式であり、トールキン自身も未完のタイムトラベルもの小説The Notion Club Papersで用いている[1][7]。
^ abcHooker, Mark T. (2006). “The Feigned-manuscript Topos”. Tolkienian mathomium: a collection of articles on J. R. R. Tolkien and his legendarium. Llyfrawr. pp. 176 and 177. ISBN978-1-4116-9370-8. "The 1849 translation of The Red Book of Hergest by Lady Charlotte Guest (1812-1895), which is more widely known as The Mabinogion, is likewise of undoubted authenticity ... It is now housed in the library at Jesus College, Oxford. Tolkien's well-known love of Welsh suggests that he would have likewise been well-acquainted with the source of Lady Guest's translation. For the Tolkiennymist, the coincidence of the names of the sources of Lady Charlotte Guest's and Tolkien's translations is striking: The Red Book of Hergest and the Red Book of Westmarch. Tolkien wanted to write (translate) a mythology for England, and Lady Charlotte Guest's work can easily be said to be a 'mythology for Wales.' The implication of this coincidence is intriguing"."