藤原 弘達(ふじわら ひろたつ、1921年〈大正10年〉7月31日 - 1999年〈平成11年〉3月3日)は、日本の政治学者、評論家。広島県尾道市生まれ[1]。「ふじわら こうたつ」と呼ばれることが多い。
略歴
尾道市立筒湯小学校(現・尾道市立久保小学校)[1]、福山誠之館中学[1]、第六高等学校を経て[1]、1945年(昭和20年)東京大学法学部を卒業し[1]、1962年(昭和37年)明治大学より政治学博士を取得[2]。東京大学の丸山眞男に師事[3]。明治大学教授を務めたのち政治評論家となった。
1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加する[4]。
人物
思想以前の人間成長
子どもの頃は、総理大臣になろうと思っていた。
戦後、東京大学に戻り、丸山真男のもとで勉強をし始めたが、大学に赤旗が翻っている光景を見て、この国は共産主義に
なるのではないかと思っていた。
東京大学に対する見解
出身である東京大学から寄付を求められていたが、医学部から始まった東大紛争が、未だ存在しているとの根拠で、拒否していた。
日本教育改造案では、東京大学を
廃校にせよとの記述があり、学生運動に対する大学当局の姿勢を批判している。
テレビ界での活動
TBSの『時事放談』で細川隆元とホストを務めた他、同局のニュースショー『JNNニュースコープ』で金曜日と土曜日[5]のメインを務めた。また、企業のトップをゲストに招いてゴルフを交えた対談番組『藤原弘達のグリーン放談』(テレビ東京)の司会もしていた。
晩年は、フジテレビの『たけし・逸見の平成教育委員会』に放映開始時から数回出演。「たけし落とし」を最初に獲得した「生徒」であり、同番組の第1回の最優秀優等生でもある。
またラジオでは、TBSラジオで平日午前7時から放送されていた「サラリーマンニュースショー・朝のファンファーレ」のニュース・パーソナリティーを長く務め、番組冒頭では「おはよう!!サラリーマン諸君!!今朝のニュースパーソナリティーは藤原弘達です」と言うのが定番だった。
創価学会・公明党に対する批判
藤原弘達は1962年(昭和37年)から創価学会を非難する論評をしており[6][7]、1969年(昭和44年)8月、2か月後に創価学会と公明党の政教一致などを批判する『創価学会を斬る』を出版するという広告が出ると間もなく、公明党の中央幹部の藤原行正や『聖教新聞』主幹(当時)の秋谷栄之助などから出版の中止や、書き直しなどを要請された。藤原は2回目の1969年(昭和44年)9月14日の約1時間40分に及ぶ藤原行正・秋谷栄之助との会話を隠しマイクで録音した。同年直後に藤原のインタビューがマスコミによって報道された。藤原はこれを出版阻止を目的とした創価学会による言論弾圧の脅しであり、金銭授受による買収工作であったと表明した。
年明けの6か月後、テープの内容が誌上で公開された(『週刊朝日』、昭和45年3月20日号)(藤原行正 『池田大作の素顔』 講談社)。今度は公明党委員長(当時)の竹入義勝の依頼を受けた自民党幹事長(当時)の田中角栄から2度に渡り出版の中止や書き直しを求められたが、これも断り出版に踏み切った。
出版された該当著作の書き出しは「日本の極貧層は約五百万人である。創価学会の公称会員は一千万以上であるが実際には五百万人くらいであろう。両者は五百万人でありこの数は一致する。創価学会員全員が日本の極貧層とはいわないが、日本の底辺層の民衆である」という内容。
藤原の主張を最初に公にしたのは、日本共産党機関紙『赤旗』(当時)の記事およびそれに続く同党活動員による街頭でのビラ配りであった[要出典]。日本共産党系の書店の店頭にはいち早く藤原の著書が陳列された[要出典]。これは事件の直前に起こったNHKテレビでの共産党対公明党の政治討論会の内容の影響、および直後の総選挙の影響が考えられる[要出典]。藤原はそれまで日本共産党に対する痛烈な批判評論、非難評論を行ってきたので、政敵であったはずの日本共産党によるこれらの対応は、この言論出版妨害がいかに悪質であったかを象徴している[要出典]。これに続きマスメディアや社会党、民社党、日本共産党の議員による国会の予算委員会で政府への追及が起こった。マスコミは後にこれを言論・出版の自由の侵害の問題(「言論出版妨害事件」)と呼んだ。
この件の数年後に起こった宗門との問題について、創価学会の会長(当時)であった池田大作が公式に「猛省」表明を行い、創価学会と公明党を制度的に分離することなどを約束した。声明の中には公明党の議員が創価学会の役職に就かないことが含まれており、これは即座に実行された。この件は創価学会と宗門との問題であり、藤原弘達とは直接関係がない[要出典]。藤原の1969年の著書『創価学会を斬る』および他の創価学会批判本にまつわる「言論出版妨害事件」についての世論の批判を受け、創価学会会長の池田大作が1970年に謝罪した[8][9]。
1990年(平成2年)以降は主だった活動がなかったが、1994年(平成6年)に藤原は創価学会に反対する保守派の政治家、宗教団体などが設立した「四月会」(発音は「死学会」の意味)[要出典]に顧問として参加。実質的な活動はなかった[要出典]。
1999年(平成11年)3月3日死去。
藤原の自宅に不特定多数の者から匿名で「おめでとうございます」などという藤原の死亡を祝う電報が届いたり電話が頻繁にかかっていたとの遺族の証言が『週刊新潮』2000年(平成12年)3月30日号に掲載された[10]。
著作
単著
論文
- 日本人文科学会 編「思想的緊張関係 日本ナショナリズムの戦後形態――日本革命菊旗同志会の場合」『社会的緊張の研究』有斐閣、1953年。
- 「西園寺公望論」『五十周年記念論文集』明治大学政治経済研究所、1954年。 - 明治大学政経論叢第23巻第3・4号(政経学部五十周年記念号)。
- 小田切秀雄、浅田光輝 編「いわゆる「昭和維新」」『近代日本断面史』青木書店〈青木新書〉、1955年。
- 福武直 編「日本人の社会意識」『日本の社会』毎日新聞社〈毎日ライブラリー〉、1957年。
- 臼井吉見 編「自由民主党の政治感覚」『現代教養全集』 第21、筑摩書房、1960年。
- 大宅, 壮一、桑原, 武夫、阿川, 弘之 編「アフリカ旅日記」『世界の旅』 第3、中央公論社、1962年。
- 日本弁護士連合会 編「時事放談」『特別研修叢書』 昭和44年度、日本弁護士連合会、1970年7月。
共著
- 富田信男「国民政治意識の基調と変化の態様」『弓家七郎博士古稀記念論文集』 第31巻、第6号、明治大学政治経済研究所〈明治大学政経論叢〉、1964年。
- 富田信男『政治悪への挑戦』ダイヤモンド社、1967年。
- 富田信男『保守独裁の底辺』文雅堂銀行研究社、1968年。 - 現代日本の政治意識(藤原弘達)の続編。
- 富田信男『現代政治と議会制民主主義』有信堂〈Yushindo sosyo〉、1969年。
- 石原慎太郎、羽仁進『いかに国を守るか』日新報道、1970年。
- 小浪義明、新谷波夫『裸のデヴィ夫人 波瀾の半生における実像』八雲井書院、1970年。
- 内藤国夫『創価学会に未来はあるか 「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相』日新報道、1979年9月。
- 細川隆元『隆元・弘達の実録「時事放談」うらおもて』山手書房、1979年4月。
- 長谷川慶太郎『激動を射る』プレジデント社、1982年10月。
- 長谷川慶太郎『転換期の処方箋 「激動を射る」第二弾』プレジデント社、1983年6月。
- 山口敏夫『この日本をどうするか : 中東・日米関係・コメと人・教育・不公正是正・政治改革を語る』日新報道、-1990-12-01。ISBN 4-8174-0249-0。NDLJP:12757796。 (要登録)
編著
翻訳
その他
- 1968年頃から、ある不動産会社の原野販売の広告(『週刊サンケイ』(昭和43年10月28日号)『週刊読売』(昭和44年1月3日号))に藤原の推薦文が掲載されるようになった。この原野販売はいわゆる原野商法であり、藤原は断りもなく広告に文章を使われたとして不動産業者に抗議をしたが、既に雲隠れ状態となっていた。代わりに藤原の事務所には、北海道大滝村の原野を買わされた被害者からの抗議の電話がかかり続けた[11]。
脚注
関連文献
関連項目
外部リンク
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1962年10月1日 |
1964年3月28日
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田英夫 |
戸川猪佐武 |
なし |
なし |
なし |
戸川猪佐武 |
(放送なし) |
なし
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1964年3月30日 |
1965年3月27日
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田英夫 |
古谷綱正 |
藤原弘達
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藤原弘達
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1965年3月29日 |
1968年3月31日
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藤原弘達
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1968年4月1日 |
1968年9月29日
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古谷綱正
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1968年9月30日 |
1969年9月28日
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近江正俊 |
近江正俊☆
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1969年9月29日 |
1975年3月30日
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古谷綱正 |
入江徳郎
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1975年3月31日 |
1981年3月29日
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浅野輔 |
入江徳郎
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1981年3月30日 |
1983年10月2日
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新堀俊明
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1983年10月3日 |
1984年9月30日
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新堀俊明☆ |
浅野輔 |
浅野輔
|
1984年10月1日 |
1987年10月4日
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田畑光永 |
吉川美代子 |
松下賢次 |
浅野芳 |
多田護
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1987年10月5日 |
1988年10月2日
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なし |
森田正光1・2・3・5 |
木場弘子4
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1988年10月3日 |
1989年10月1日
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平本和生 |
三雲孝江3
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1989年10月2日 |
1990年4月1日
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吉川美代子2 |
戸崎貴広2
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