花見朔巳

花見 朔巳
生誕 1881年9月23日
福島県耶麻郡姥堂村
死没 (1946-04-27) 1946年4月27日(64歳没)
東京都芝区白金
出身校 東京帝国大学文科大学国史学科
職業 歴史学者
配偶者 渡部ヨシノ(福島県渡部良軒の次女)
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花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日[1] - 1946年4月27日)は、日本の歴史学者東京帝国大学史料編纂官、大学講師などを務める。主な研究対象は会津名古屋安土桃山時代の三分野[2]で、安土桃山史の権威であった[3]。歴史地理学会幹事。

海軍中佐海兵57期)で天霧駆逐艦長としてJ.F.ケネディー海軍中尉指揮する魚雷艇を撃沈し、戦後に塩川町長を務めた花見弘平陸軍少佐の花見侃(第36師団参謀、陸士47期陸大57期[4])は甥である[5]

生涯

現在の福島県喜多方市に地主の次男として生まれる。会津中学に学び[1]植村恒三郎、陸軍少将佐藤美千代と同期であった[6]1903年第二高等学校を卒業[7][8]し、1906年東京帝国大学文科大学を卒業[9]

開成中学教員[1][10][11]を経て、名古屋市史編纂員として[12]名古屋市史』政治編、学芸編の編纂を担当。名古屋電気学校で教員も務めた[13]1915年に編纂が完了すると明治中学校に勤務した[1]。次いで『越佐史料』の編纂主任を務め、1922年から東京帝国大学史料編纂所に勤務し[1][11]1925年から史料編纂官となる[14]横浜市若松市の各市史編纂に携わったほか、下記の著作を刊行し、また『歴史地理』、『中央史壇』、『歴史教育』などで論文を発表した。1942年(昭和17年)からは勅任官待遇を受ける[11]。同年4月に退官[15]

講師を務めた学校は 早稲田大学日本大学東京外国語学校上智大学などで、聖心女子学院で講義中に倒れ、同校で死去した[11]会津会会員[16]

著書等

単著
共著
編纂、校訂

脚注

  1. ^ a b c d e 「花見朔己ヲ史料編纂官補」『公文雑纂・大正十一年・第四十一巻・初任判任官俸給制限外支給三』”. 国立公文書館 (1922年12月26日). 2022年11月9日閲覧。
  2. ^ 川上多助「川上多助氏談話(要旨)」『歴史地理』第88巻第4号、吉川弘文館、1958年、32-35頁、ISSN 0386-9180 
  3. ^ 藤井甚太郎「追悼録 花見・相田両君を追慕して」『歴史地理』第88巻第4号、吉川弘文館、1958年、39頁、ISSN 0386-9180 
  4. ^ 上法快男『陸軍大学校』芙蓉書房出版
  5. ^ 花見和子『夫弘平との六十年』福島民報社事業局出版部
  6. ^ 福島県立会津高等学校『創立七十周年記念誌』須藤素「同級生」
  7. ^ 第二高等学校 編『第二高等学校一覧』第二高等学校、1903年11月30日、147頁。NDLJP:812945/165 
  8. ^ 『官報』第6004号、明治36年7月8日、p.131.
  9. ^ 『東京帝国大学一覧 従明治39年至明治40年』東京帝国大学、1907年、(207)頁。NDLJP:813182/318 
  10. ^ 『会津人物事典 文人編』「花見朔巳」
  11. ^ a b c d 署名無し「花見朔巳氏履歴」『歴史地理』第88巻第4号、吉川弘文館、1958年、61-63頁、ISSN 0386-9180 
  12. ^ 『日本紳士録』(15版)交詢社、1910年12月30日。NDLJP:780103/801 
  13. ^ 『電気事業五十年史』電気タイムス社、1922年10月5日、799頁。NDLJP:970731/413 
  14. ^ 『東京帝国大学一覧 従大正15年至昭和2年』東京帝国大学、1927年、367頁。NDLJP:1448364/188 
  15. ^ 『人事興信録 第14版 下巻』人事興信所、1943年10月1日、ハ64頁。NDLJP:1704455/432 
  16. ^ 『会津会会員名簿』(大正8年6月発行)

参考文献

  • 小島一男『会津人物事典 文人編』歴史春秋社
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京編』(第13版)、1939年
  • 日本歴史地理學會(編)「花見朔巳・相田二郎両氏追悼特輯」『歴史地理』第88巻第4号、吉川弘文館、1958年、32-74頁、ISSN 0386-9180 

外部リンク

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