羅紗緬(らしゃめん、羅紗綿)は、綿羊のことで、日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。洋妾(ようしょう)、外妾(がいしょう)とも言われる。
幕末開国後の1860年頃から使われだした言葉で、西洋の船乗りが食用と性欲の解消の為に船にヒツジを載せていたとする俗説が信じられていたためといわれる。パンパン、イエローキャブと同じような使われ方をする。
安政6年(1859年)の開国・横浜開港と同時に、江戸幕府公認で、主に外国人の相手を目的とした港崎遊郭が関内に開業、幕府は外国人専用の公娼(羅紗緬)を鑑札制にし、管理を遊女屋に託した。遊郭内では、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。
また、幕府は日本人の娘が外国人男性と結婚するのを禁じていたが、外国人からは遊郭の遊女以外の女性の要望も強く、せめて妾は許して欲しいと主張されて遊女であれば外国人の自由にさせても攘夷の浪人を憤慨させることはあるまいと、万延元年(1860年)、港崎遊郭の羅紗緬に外国人の妾になることも許した[1]。 遊女は遊女屋と証書契約を結んで鑑札を受けてのちに外国人の妾となり、給料の中から遊女屋へ鑑札料を支払っていた。以降、羅紗緬は増加し、文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べでは、羅紗緬鑑札の所持者は500人であった。
一方で遊女を好まない外国人もいて、素人の羅紗緬も出現する。鑑札所持者からはこれはもぐり羅紗緬と苦情が出たが、妾は結婚ではないから奉行所は取り締まることができなかったため素人が増加、文久2年から慶応2年頃までには異人館通いの羅紗緬が2400〜2500人にも増えたという[2]。
また、白人に身を任せる日本人一般女性を見つけることが当時は困難だったため、被差別部落の女性が羅紗緬の多くを占めたとの史料もある[3][4]。
しかし、慶応2年(1866年)の豚屋火事で港崎遊郭が全焼して以降は衰えた。明治5年(1872年)、吉原遊廓では羅紗緬は鑑札を要せず、在住地官長への届け出制となった。
「そこで各地の遊郭に人を派し、利を以て喰はすの手段を取つたりして、僅に要求に応じて居た。果ては遠く長崎地方に求めて、多少異国味に馴れた遊女や、其他の女達を抱へ入れんとしたとも云はれるが、結果は良好でなく、何れも要求数に満たぬ有様であつたから、特種部落出の遊女又は婦女に目を著け、其方面の応募者を相当多く拉し来つたやうである。而してらしやめん女郎は次第に此特種部落出のものに依つて形造られた型となつて来た。彼等は横浜と云ふ土地の状況に多少とも理解を有するものが多かつた関係から、横浜界隈若くは武・相二州の細民階級のものが多数を占めたと云ふ事である。」
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