綾小路 有長(あやのこうじ ありなが、寛政4年〈1792年〉 - 明治14年〈1881年〉)は、江戸時代後期、明治時代の公卿、華族、綾小路家14代当主。
光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の4代に渡って仕え、正二位権大納言まで昇った。
家の学である郢曲の伝統を守るかたわら、歌書を能くした。
また日光例幣使に選出されたことがあり、玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)の本陣であった木島家裏庭に有長が1843年(天保14年)この本陣にて
「玉むらのやどりにひらく玉くしげふたたびきそへかへさやすらに」
と歌った和歌一首が1864年(文久4年)に建立された石碑に刻まれ現存している[1][2]。
1871年(明治4年)雅楽局神楽人を勤めた。
歌会始(当時は「歌御会始」)では「発声」の役を最晩年に至るまで務め、明治天皇から褒賞を受けている。