篠原 右近(しのはら うこん)は、戦国時代から江戸時代前期の阿波国の武将、僧。木津城主・篠原自遁の三男。
生涯
阿波三好家重臣[3]・篠原自遁の三男で、現在の徳島県鳴門市に所在する真宗寺院・圓勝寺の開基と伝わる[1][注釈 1]。
右近は戦没した父の冥福を祈るため、本願寺法主顕如のもとに赴いて得度し、文禄年間(1592–1596年)、元いた地に戻り圓勝寺を建立したという[2]。篠原氏の主家・阿波三好家と本願寺は織田信長との対立の中で手を結んでおり、また篠原長房が本願寺8世法主・蓮如の孫である教行寺兼詮の娘を妻にし、紀伊に逃れた長房の子・松満丸を顕如が支援するなど、篠原氏と本願寺の間には縁があった[4]。
寛永元年(1624年)3月19日に死去した[1]。
脚注
注釈
- ^ 寺院の縁起には、木津城主・大炊頭右近の子とあり、名字は不詳[2]。確かな史料で確認できる自遁の呼び名は「弾正忠実長」と出家後の「不干斎自遁」である[3]。
出典
外部リンク