立花 貞二郎(たちばな ていじろう、1893年 (明治26年)- 1918年(大正7年)11月11日[1][2][3])は、日本の女形俳優、元子役である[1]。
1893年(明治26年)、東京府東京市浅草区新谷町(現在の東京都台東区千束1丁目)に生まれる[1][2]。兄は歌舞伎役者の中村富之亟だが、立花の幼少期に鉛毒で死去している[4]。
幼少にして初代 中村芝鶴のもとで子役として初舞台を踏んだ[2]。子役期を脱して本格的な初舞台を踏んだのは、満12歳を迎える1905年(明治38年)であった[2]。
歌舞伎時代の名は中村 芝鷺(なかむら しろ)[2]、また中村 芝鷺助(なかむら しろすけ)と名乗った時期もある[5]。
新派への転向を経て、満16歳を迎える1909年(明治42年)、吉沢商会で映画界にデビューした[1][3]。その後、梅屋庄吉のM・パテー商会作品にも出演し[1]、1912年(明治45年)に吉沢商会、M・パテー商会が他の2社と合併して日活を設立、翌1913年(大正2年)に建設・開所された日活向島撮影所に入社する[1][3]。
『やどり木』(1913年)、『花の夢』(1914年)等で主役を張り[3]、1914年(大正3年)、関根達発と共演したレフ・トルストイの小説『復活』の映画化、『カチューシャ』が大ヒットとなった[1]。同作が立花の出世作となり、日活向島の人気女形スターとなった。薄幸のヒロイン役が人気であり[1]、同時代のアメリカ映画の女優・メアリー・ピックフォードに比された[3][4]。
1917年(大正6年)頃から持病の肺結核が悪化[6]。翌年、体調が持ち直すと「お名残り」として『生ける屍』に出演[6]。その後日活向島を辞め巡業に出るが、同年11月11日、名古屋の巡業先で死去した[7](兄と同じく鉛毒が死因という説もある[1][2][3])。満25歳没。
歌舞伎、新派を経て最初期のサイレント映画に出演し、「日本のメアリー・ピックフォード」と称せられた。本名は不詳[1][2][3]。
楚々とした風情が語り草だったという立花は、大変にカンのいい俳優で、演技をしながらキャメラの回転音を聞き、体の動きのスピードを加減したという。そのころのキャメラは手回しだったので、フィルムの節約、光線の具合などでハンドルの回転を遅くすることが技師の手ひとつで出来た。「回転が落ちているな」と思ったら演技の動きを遅くする、「出来上がった映像の動きは自然に見える」という塩梅で、まさにサイレント映画的名優と言われたのである[5]。
立花が「ヒロイン」を演じた『カチューシャ』は大ヒットとなり、映画館では女弁士が歌う『カチューシャの唄』が同じく大評判となった。南部僑一郎は当時の熱狂ぶりについて次のように語っている[8]。
立花の死去と同時期に、「写実を旨とする映画に女形は不自然である」として、映画界は急速に女優導入が進んだ。大正7年夏、天活の帰山教正が監督第一回作品『生の輝き』で新劇女優花柳はるみを起用。大正9年には松竹キネマが女優を含めた俳優の養成を開始している[1]。
特筆以外は日活向島撮影所作品、すべて出演である。