秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年)[1] - 1915年(大正4年)10月27日[1])は、岡山県倉敷市出身の実業家。
来歴
1845年、備中国倉敷で秋山文三郎の二男として生まれた[1][2]。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた[1][2]。
14歳で家業を手伝い[1][2]、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営[1][2]した。
1865年(慶応元年)大坂堂島で仲買を始める[1][2]。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む[1][2]。
1870年(明治3年)再び堂島で開業[1][2]する。1884年(明治17年)堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された[1][2]。
1892年(明治25年)堂島より引退[1][2]する。
引退後は、大阪演芸会社を設立し、角、浪速の二座を経営[1][2]する。売上金を、閑谷学校の維持費、岡山県武学生養成会基金などへ多額の寄付をした[1][2]。
1915年10月27日死去。享年71。
エピソード
日清戦争の前、陸軍の廃銃、5800挺の払い下げを受け、清国へ売却しようとしたが、両国の交戦が激しくなると考え、契約を破棄し、廃銃は全国の中等学校へ寄贈した[2]。
親族
脚注
参考文献
- 吉岡三平 監修『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。
- 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。
関連項目