秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日[1])は、日本の教育者。
経歴
福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去[1]。
親族
脚注
- ^ a b 『官報』第3153号、昭和12年7月8日。
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第10版(上)』人事興信所、1934年。
- 斎木織三郎編『大日本現代教育家銘鑒 第2輯』教育実成会、1915年。
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前身諸学校・大学長 |
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| 九州大学附属工業専門部長 |
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九州帝国大学附属工業専門部長 |
- 事務取扱/部長 河東卓四郎 1944/1944-1945
- 事務取扱/部長 張玄彦 1945/1945-1946
- 坂井甚吉 1946-1947
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九州大学附属工業専門部長 | |
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| | | 九州大学附属医学専門部長 |
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九州帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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九州帝国大学附属医学専門部長 | |
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九州大学附属医学専門部長 | |
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