石鉄県(旧字体:石鐵縣、いしづちけん[1][2][3][4]、せきてつけん[5][6][7][8][9])は、1871年(明治4年)に伊予国北部を管轄するために設置された県。現在の愛媛県中予地方、東予地方にあたる。本項では前身である松山県(まつやまけん。第1次府県統合後)についても記す。
石鉄県の名は、石鎚山(石鈇山[注釈 1]、いしづちやま/いしづちさん)に由来する。ただし「鉄(鐵)」の字を用いたことについては、石鎚山の別表記の一つである「石鈇山」の「鈇」[注釈 2]の字を「鉄」[注釈 3]と混同したためではないかとされている[12][13]。
明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県に伴い設置された西条・小松・今治・松山の4県が、同年11月に統合され「松山県」が発足。明治5年(1872年)正月の稟請書によれば、人民の耳目を一新すべく県名を改めることとし、管内の中央にあって「四国第一ノ峻岳霊地」である石鎚山の名を採用すると説明されている[12]。明治5年2月9日付の太政官布告で「松山県石鐵県卜被改候事」と通告された[12][14]。
「鉄(鐵)」には多くの字体があり、明治5年2月9日付の太政官布告は「石䥫縣」(䥫:金偏に截)の字体で記録されているが[15][14]、「石𨯒縣」(𨯒:金偏に韯)[16]を用いるものも多く見られ、県の廃止時には「石鐵縣」の字体で記録されている[17](『太政類典』には「石䥫」を「石鐵」に修正する書き込みがある[18])。他に「石銕縣」[19]と記すものもある。現代の文章や事典・データベース等では標準字体(新字体)である「石鉄県」が多く用いられるが[20][注釈 4]、固有名詞部分で正字「鐵」を採った「石鐵県」も用いられ[21]、愛媛県地域では『愛媛県史』をはじめとして「石鐡県」の字体を用いる例が見られる[12][22]。
県名の読み方については、冒頭に掲げた通り「いしづち」「せきてつ」の2種がある。『松山市史 第三巻 近代』では「石鉄県」に「せきてつ」「いしづち」2通りの読み仮名が振ってある。
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