石橋 博良(いしばし ひろよし、1947年〈昭和22年〉1月5日 - 2010年〈平成22年〉5月22日)は、日本の実業家。株式会社ウェザーニューズの創業者で元代表取締役社長および代表取締役会長。一般財団法人WNI気象文化創造センター元代表理事。
来歴
この節の特に明記のない出典は[4]及び[5]、[6]、[7]を参照のこと。
人物
石橋が安宅産業勤務時代、用船の担当者であった。1970年(昭和45年)1月、当時5,000本もの丸太を積んだ15,000トンの船を担当していた石橋の元へ、寄港予定先の大阪港が荷役の船で混雑しているとの情報が届いた。入港数日前であったため、このままにしておくと、10日間待たなければいけないという。更に2,000万円近くの滞船料が発生し、莫大なロスが発生するため、石橋は「空光丸」に行き先を福島県いわき市の小名浜港へ変更するように指示。このとき小名浜港では1日待つだけで荷役が開始でき、しかも、空光丸は迂回料を払わなくても済む地点を航行していた。
しかし、1970年(昭和45年)1月31日空光丸が小名浜港に到着した直後、南岸を北東に向かっていた低気圧が急速に発達。小名浜港の外に停泊していた空光丸は錨を下ろしていたにもかかわらず、巨大な波の力で防波堤にたたきつけられ、1月31日6時に沈没した。船長は天候の急変を予想しておらず、一足先に上陸しており助かったが、荒れ狂う海に飛び込んで陸地に向かった乗組員のうち15人が亡くなった。
この低気圧は、全国で死者と行方不明者併せて25人、家屋の被害5,000棟以上、船舶の被害293隻にのぼり、当時「台湾坊主」と呼ばれ、気象庁が後に「昭和45年1月低気圧」と命名した爆弾低気圧で、当時は爆弾低気圧を予測する事が技術的に難しく、更に海上気象提供サービスですら、存在していなかった事がこの事故の原因であった。
- 「どうして低気圧がこんなに発達することが予測できないのか、それが不思議だった。せめて危険を回避する情報提供サービスがあればいいのに、それもない。天気予報はサービスになっていない。」
- 「それは、対価を払ってでも受けたいサービスになるだろう。ならば、やる意義があるんじゃないか」
と考え、オーシャンルーツに飛び込んでいった。それが後のウェザーニューズとなった[8]。
- ウェザーニューズ会長室には「ウェザーニューズの原点となった事故を決して忘れないために」当時の新聞(朝日新聞 夕刊 1970年(昭和45年)1月31日付)を掲示してある[8]。
この節の特に明記のない出典は[6]及び[9]を参照のこと。
著書
エピソード
- ウェザーニューズが放送していた「SOLiVE24」には、数回の出演経験がある。その中で、「バシ」こと実子の石橋知博(取締役(当時))と親子共演することがあった。2010年5月2日の「SHIRASE」オープニングセレモニーでのスピーチ(生放送)が、最後の出演となった。ウェザーニューズのYouTube公式チャンネルで見ることができる(SHIRASEオープニングセレモニー中のスピーチ。9秒頃~出演)[10]。なお、司会が「代表取締役副会長」と言っているが、これは「代表取締役会長」の誤りである。
- ウェザーニューズから退職金は支払われていないし、退職金が支払われる予定もない。退職金に関しては、株主総会での株主からの質問に対し、「自己管理の文化を大切にしてきた石橋に対して退職金を支払うということは考えていない。」としている[11]。
脚注
関連項目
外部リンク
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かつての関連企業 | |
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出演所属気象予報士 | |
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関連人物 | |
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- ^ a b SOLiVE24ではキャスターとしても出演
- ^ ウェザーニュースLiVEではキャスターとしても出演
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