石川 裕人 (いしかわ ゆうじん、1953年9月21日 - 2012年10月11日)は、日本の劇作家・演出家・シナリオライター。元「TheatreGroup"OCT/PASS"」主宰・代表。山形県東根市出身。
NHKオーディオドラマ審査員、(財)仙台市市民文化事業団評議委員(1999年から2005年まで)、「仙台劇のまち戯曲賞」選考委員(2001年から)「土井晩翠わかば賞・あおば賞選考委員(2008年から)といった役職も務めた。
高校時代から劇団を結成、役者・劇作・演出・作曲等を手がけ、執筆・演出作は100本を越える。1981年に結成した「十月劇場」は、仙台市の劇団としては初の東京を含む全国公演を成功させ、国内の演劇フェスティバルへも多数参加した。1995年に「十月劇場」を発展的に解散、TheatreGroup“OCT/PASS”を結成した。
2021年の時点で、宮城県の地元紙河北新報では「劇都仙台を代表する劇作家、演出家だった」と紹介されている[1]。
自衛官の父のもとに長男として誕生。本籍は宮城県だが、母が実家のある東根市に里帰りして石川を出産した。成人して演劇活動を開始してから東根市出身を名乗るようになる。2歳下の妹との2人きょうだいだった。
1955年頃から父の転勤により、宮城県名取市に居住。幼少期より読書を愛好した。幼稚園には通わずに名取市立増田小学校に入学し、3年生の時に学芸会で主役を演じる。4年生時に粘土人形で寸劇をする授業で、担任教員から「シナリオライターになれる」という言葉をかけられ、初めて「シナリオライター」という言葉を知る[2]。この学年でも学芸会の主役を務めた。5年生時には授業で書いた[要出典]シナリオが評価され、校内放送で朗読した[2]。
名取市立増田中学校時代には、学級新聞「1+1=3」などを編集するかたわら、「ボーイズ・ファイター」や「UFO」といった肉筆誌を連発する[3]。
中学卒業後は1年間の受験浪人を経て、宮城県名取高等学校に進学する。演劇部に入ったものの満足できず、1970年10月に「演劇センター68/70」(後の劇団黒テント)の公演を仙台市西公園で観賞して感激する[4]。同時期、個人ミニコミ「夢煮夜」を創刊する[5]。1971年1月に状況劇場の仙台公演を鑑賞し、翌日、演劇部を退部した[4]。状況劇場を主宰する唐十郎に生涯、演劇の師として私淑する。
同年10月、高校の文化祭で中学校からの同級生K(のちの舞台監督・元木たけし)と「演劇場座敷童子」を立ち上げ、長編処女戯曲「死神が背中を触った」を公演する(ペンネーム・いしかわ邑)[3][4]。
1972年には東京キッドブラザーズの映画『ユートピア』の上演を企画し、ゲストに呼んだ寺山修司、東由多加と会話する機会を得る[4]。同年10月の文化祭で自主団体として第2作目 「秘密のアッコちゃん 凶状旅編」を公演する[3][4]。高校3年生の時点で、大学進学も就職もしないと決めていた[4]。
1973年の高校卒業後、仙台市に友人たちが開始していた共同生活体「雀の森」に参加する。のちに仙台市緑が丘の共同生活「サザンハウス」を創設する。劇団は高校時代の「演劇場座敷童子」を引き継ぐ形で、仙台で活動した[6]。
1973年12月に国際ユネスコ会館3階で第3作目「治療」公演[6]。これが有料チケットを販売する実質的な劇団公演の最初となる。
1975年1月、メンバーが入れ替わり劇団名を「ラジカルシアター座敷童子」と改称する[7]。翌年、劇団名を「洪洋社」に再変更した[7]。同年仙台市向山に約5坪の稽古場を作り、7本目の戯曲「失われた都市の伝説・廃都伝序」では、テアトル・デ・ムール(風俗劇場)と名付け、公演会場とした[7]。8本目の「愛情劇場・白痴の青春十字路篇」は仙台定禅寺通にある演劇工房アトリエで公演[7]。この公演では、楽屋から便所に行けない構造だったため、尿を我慢して急性膀胱炎を起こし、終演後に倒れて病院に担ぎ込まれる一幕もあった[7]。同年から劇団が『宮城県芸術年鑑』に掲載されるようになる[7]。
1977年に執筆した3本の戯曲は団員の合意を得られず、上演に至らなかった[8]。劇団としての統制が取れない状態で、1978年6月の宮城県沖地震に見舞われ、稽古場を閉鎖して劇団も解散した[8]。食品会社に勤務し、以後3年間は演劇から離れる。
1980年に「洪洋社」の元団員が参加する劇団「IQ150」が仙台市で旗揚げして人気となり、石川も刺激を受けた[9]。
1981年10月、元洪洋社を中心とした10人のメンバーと 「十月劇場」を立ち上げる[9][10]。泉市(現・泉区)にあった[要出典]勤務先の倉庫2階が稽古場だった[9]。芝居を趣味と位置付け、年1回の公演ペースを想定する[9]。十月劇場としては最初となる、12本目の「流星」を公演する[9]。ペンネームを石川邑人に変更する[9]。
1983年に「東北演劇祭」(八戸市)に参加し、国内の他の参加劇団や演劇評論家と交流を持つようになる[9]。1984年の盛岡市での第2回にも参加した(「嘆きのセイレーン・人魚綺譚」を上演)[9]。同年冬に本町にあるビル4階にアトリエ劇場を開設した[11]。
1985年に執筆した「翔人綺想」からペンネームを石川裕人に変更する[11]。石川は2010年のブログで「(変更の)理由は今では思い出せないが、やっと自分の作品に自信を持ったのかもしれない」と述べている[11]。
1986年の「水都眩想」では、「風の旅団」からテントを借りて仙台市、盛岡市、八戸市、山形県寒河江市と各地で公演をおこない[11]、石川によると読売新聞にも取り上げられたという[11]。演劇評論家の衛紀生が本作を評価し、演劇雑誌向けに改訂して岸田國士戯曲賞にノミネートすることを持ちかけたが、石川は当時「書き終えたものはそこで終わる」という考えを持っていたため、応じなかった[11]。1987年に自前のテントを持ったものの[11]、制作費150万円は劇団では支払えず、団員からの借金でまかなったという(後に返済)[12]。
1988年に公演した「又三郎」からワードプロセッサを執筆に使用するようになり、書く速度が上がる[12]。「又三郎」は、東北ばかりではなく東京都や新潟市・名古屋市・京都市にまで及ぶ2か月半の長期公演となった[12]。1989年には初めて年間6本の作品を執筆した[13]。同年、劇団の女優と結婚した。
1990年の「斎理夜想」の後に、十月劇場の活動を休止する[13]。石川は後に「疲れたのだ」と記している[13]。次の「あでいいんざらいふ」は石川裕人事務所としての公演となったが、1991年の「絆の都」(三部作「時の葦舟 The Reedoship Saga」第1巻)で活動を再開した[14]。
1992年、稽古場を仙台市定禅寺から仙台市市河原町に移す(前の稽古場の家賃滞納が主因)[14]。1993年に上演した「無窮のアリア」(三部作「時の葦舟 The Reedoship Saga」第2巻)では、稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月を河北新報に「芝居ができる 十月劇場の5ヵ月 演劇という『非日常』を抱えた生活者たち」のタイトルで23回にわたって連載した[15]。
しかし、1994年に劇団の発展的解散を宣言した[16]。
1995年、TheatreGroup"OCT/PASS"(以下"OCT/PASS"と略記)を結成する[17]。新しい劇団では「現代浮世草紙集」や「PlayKenji」といったシリーズものなど、多い年には年間5本以上の戯曲を執筆、上演した。 1998年12月、取材のため、香港とハワイへ初の海外旅行をする。
2002年にはノートPCを購入し、いつどこでも書けるような体勢にした。2003年には「劇都仙台」演劇プロデュース公演のプロデューサーを務める。
2006年8月より劇団ウェブサイトで「石川裕人劇作日記 時々好調」の掲載を始める(2012年9月まで)。
2007年4月、肝細胞癌のために入院して手術を受ける。
2010年11月に初の脚本集『時の葦舟』が刊行される。また、「精華演劇祭2010 SPRING/SUMMER」に参加した。
2011年3月の東日本大震災には大きな衝撃を受ける。同年11月より、「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス」(宮城県震災復興・企画部震災復興推進課)にnew-T(石川裕人)のペンネームで執筆した(2012年10月13日掲載分まで[注釈 1])[18]。
2012年8月、「方丈の海」を上演、これが最後の戯曲作品となる。演劇ジャーナリストの横澤信夫は 「震災から十年が過ぎた三陸の架空の港町を舞台に、被災地に生きる人々のさまざまな思いがぶつかり合って展開され、厚みを感じさせるドラマだった」と評した[19]。
同年9月23日、 ブログ「石川裕人劇作日記 時々好調」に「休筆。明日からしばらくの間、『劇作日記』をお休みします。再開は10月中旬になると思います。それではみなさま、お元気で。」と記し[20]、これが絶筆となる。
2012年10月11日、肝細胞癌により死去(満59歳)。墓は自宅に近い宮城県名取市の吉祥寺(曹洞宗)にある。
横澤信夫は、「生涯百本を超える戯曲を書き、地元の演劇界では常に先頭を切って走り続けたリーダーだった。深く哀悼の意を表したい。」とのコメントを『宮城県芸術年鑑』に記した[19]。
2013年10月、“OCT/PASS"は石川裕人追悼公演として「方丈の海」を、前年の石川の演出を踏襲する形で再演した(せんだい演劇工房10-BOX box-1)[21]。
2015年10月、“OCT/PASS”は石川裕人追悼イベントとして「ラストショー」のリーディング公演を開催した(せんだい演劇工房10-BOX別館能Box)[22]。
2016年10月、“OCT/PASS"は活動を休止した[23]。
2018年3月16日、 渡部ギュウによる朗読劇「東北物語 ここよりはじまる ~震災と表現 石川裕人氏の足跡を道しるべに」が上演された[24]。
2019年10月12日に、せんだい3.11メモリアル交流館で「『ゴッセーノセイ!!東北』~震災と表現 石川裕人が駆け抜けた19ヶ月~」と題する朗読イベント(「方丈の海」や石川のブログなどを再編して読む)が開催された[25]。
2021年には、作中の舞台設定が同年だった「方丈の海」の再演企画が、クラウドファンディングでの資金調達も含めておこなわれ[1]、実際の上演にこぎ着けた[26]。
出典は石川のブログ[27] および過去の『宮城県芸術年鑑』。