石井 庄司(いしい しょうじ、1900年7月15日[1] - 2000年10月5日[1])は、日本の国文学者、国語教育者、俳人。俳号は「桐陰」。
1900年、奈良県生駒郡で生まれた[1]。1914年、奈良県立郡山中学校を卒業[1]。1918年より郡山中学の英語教師であった原田浜人の指導で俳句を詠み始めた。1920年、東京高等師範学校に入学[1]。東京高等師範学校入学と同時に大塚講話会に入り、児童文化の発展に貢献した[2]。その活躍は「大塚講話会中興の祖」と評された[2]。1924年に卒業して東京高等師範学校助教諭となったが[1]、翌1925年、京都帝国大学文学部国文科に入学。1928年に卒業し、同大学大学院に進んだ[1]。
1929年、東京女子高等師範学校教諭兼教授に就いた[1]。1943年、東京高等師範学校教授に就任[1]。戦後の新制大学発足にともなって東京高等師範学校が東京教育大学に包摂となったことから、1950年からは同大学教授[1]。1961年、学位論文『近代国語教育論史』を東京文理科大学に提出して文学博士の学位を取得[3][1]。1964年に東京教育大学を定年退職[1]。その後も、1965年より東海大学教授として教鞭をとった[1]。1981年に同大学を退職[1]。
国文学者としては『万葉集』や松尾芭蕉の俳諧を研究テーマとした[2]。国語教育者としては芦田恵之助を研究した[4]。
また、1918年から郡山中学英語教師の原田浜人の指導で俳句を始め、原石鼎に師事して『鹿火屋』『ホトトギス』に投句。京都大学三高俳句会では鈴鹿野風呂に師事し、1926年『京鹿子』同人。戦後は『若葉』『春嶺』『橘』の同人[5]。
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