田中 久一(たなか ひさかず、1889年(明治22年)3月16日 - 1947年(昭和22年)3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・小金井。
兵庫県出身。田中八作の養子となる。1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第37連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、戸山学校教官、教育総監部付などを経て、1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。
参謀本部付勤務、参謀本部員、アメリカ出張、参謀本部員、歩兵第1連隊付、陸大専攻学生、陸大教官、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、近衛歩兵第1連隊長、陸大教官などを歴任し、1937年12月、陸軍少将に進級。
台湾軍参謀長、第21軍参謀長、戸山学校長などを経て、1940年8月、陸軍中将となった。同年9月、第21師団長に親補され、中国大陸を転戦。1943年3月1日第23軍司令官、1945年2月1日香港占領地総督を兼任して終戦を迎えた[1]。
1946年3月にBC級戦犯指名を受け、同年10月9日に上海の米軍事法廷により死刑判決が出されたが[2]、翌年3月に中国の軍事法廷により再び戦犯として起訴され、広州で銃殺刑に処せられた。
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