瑩山 紹瑾(けいざん じょうきん、諡号:佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師)は、日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。瑩山派(總持寺派)の派祖で、教団では第四祖とする。
一般には瑩山禅師と呼ばれ、教団内では日本曹洞宗開祖で祖の道元を高祖承陽大師、瑩山を太祖常済大師とする。
生い立ち
越前多禰(現在の福井県越前市帆山[4])の豪族瓜生氏の長男として生まれる(明確な親族関係は不詳)[5]。幼名は行生(ぎょうしょう)。母親の熱心な帆山観音信仰の影響を受け、幼少時から信仰心に目覚める。
道元の建仁寺時代からの熱心な信者で母方の祖母である明智優婆夷の影響から、8歳で永平寺に入り、徹通義介の下で沙弥となる。弘安3年(1280年)、13歳の時、師の勧めで永平寺2世孤雲懐奘に就いて、その最後の弟子として出家得度。
活動
太祖忌
毎年、亡くなった8月15日(新暦換算で9月29日)に、道元と共に両祖忌として法要が行われている。50年に一度ずつ遠忌が總持寺で開催される。
思想
道元は祈祷や祭礼を否定はしなかったものの、その対象は永平寺の僧たちの安全祈願及び寺院周辺の天候回復などの祈願が主であり、晩年の建長元年(1249年)に『永平寺住侶利親』で「まさに諸方への護持僧参勤事を停止すべし」[7]と命じたように、他の寺院が行なっている、寺院以外での加持祈祷は禁じていた。
これに対し、永平寺3世となった徹通義介は宋に留学して密教の祈祷を学び、仏殿を建て礼仏を取り入れるなど積極的な改革を行った。こうした改革は寂円等の道元の遺風を慕う一派との対立を生み、「三代相論」とよばれる内紛に発展した。
瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ、道元以来の出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を伝え信徒を拡大した。これには瑩山が依拠した寺院が、白山系の天台寺院であったことや、兼修禅的傾向の強い法燈派の僧らと瑩山との密接な関係が影響したと考えられる。
弟子
門下には四哲と呼ばれる明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡をはじめとする俊英逸材が多数輩出し、曹洞宗興隆の基礎を固めた。また、晩年の道元は女性の出家修行に否定的であったが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道を推し進めた。
平成27年(2015年)現在、日本伝統宗派最多の寺院数を持つ曹洞宗の隆盛は、瑩山とその門下によるものであり、全寺院の8割は元は總持寺系と言われる。このため、第4世でありながら、釈迦、道元と共に一仏両祖として尊崇されている。
著書
著作集
- 『常済大師全集』(孤峰智璨編、大本山總持寺、1967年)
関係文献
科研費報告書
記念論集
- 『瑩山禅師研究 - 瑩山禅師六百五十回大遠忌記念論文集』(瑩山禅師奉讃刊行会、1974年)
- 『瑩山禅』1-12(山喜房仏書林、1985年)
参考文献
- 『瑩山禅師伝』(宮地清彦著、曹洞宗宗務庁、2011年)
- 『禅学大事典』536p(大修館書店、1979年)
脚注
- ^ 生年には文永元年(1264年)説もある。
- ^ 安永元年(1772年)11月29日、後桃園天皇
- ^ 明治42年(1909年)明治天皇
- ^ 生地には福井県坂井市丸岡町説もある
- ^ 帆山にはそれを記念して「瑩山禅師御誕生地顕彰碑」「瑩山禅師父母孝養碑」が建てられており、これとは別に近隣に近年「御誕生寺」が建立されている
- ^ 創作とする説が多い
- ^ 大村哲夫「仏に代わって祈りを聞くカミガミ」(『東北宗教学』X号、東北大学、2006年)
関連項目
外部リンク