献哀王后 皇甫氏(けんあいおうこう こうほし)は、高麗5代の王である景宗の第3王妃で、第7代穆宗の王母。諡号は応天啓聖静徳王太后[1]。千秋太后(せんしゅうたいごう)の別名を持つ[1]。
太祖の王子王旭と夫人柳氏との間に生まれる。同母兄に成宗(王治)、同母妹に献貞王后皇甫氏がいる。王室の風習に従い、外祖母である神静王后皇甫氏にちなんで自らも皇甫姓を名乗った。
従兄にあたる景宗の第3王妃となり王訟を儲けたが、景宗6年(981年)に死別した。兄成宗が即位後は太后となり、千秋宮に住んだ。王訟が即位して穆宗となった際、自らの居住宮にちなんで千秋太后と名乗るようになった。
献哀王后は母方の親戚にあたる金致陽と出会い、情を交わす関係となったが、このことが公然と知られるようになると宮中に混乱が起こった。成宗は金致陽を貴陽へ送ることで事態を収束させた。しかし穆宗の摂政となると、献哀王后は金致陽を呼び戻して右僕射(上奏を取り扱う部署の次官)兼三司事(当時の高麗で財政権と人事権を併せ持った職務)に任命し、多大な権限を与えた。
献哀王后は自らの本拠地である西京を優遇する政策を行った他、金致陽の出身地である瑞興に星宿寺を建てたのを始め、各所に道観や寺院を建設した。
穆宗6年(1003年)、献哀王后は金致陽との間に息子を儲けた。
穆宗12年(1009年)、康兆が政変を起こし、金致陽と息子は処刑されて献哀王后は流罪に処せられた。穆宗は廃位され、幽閉地に向かう途中で康兆の部下に暗殺された。これにより、献哀王后は政界において完全に失脚した。康兆らは王詢を王位に推挙し、王詢は即位して顕宗となった。
流罪から解かれた後、献哀王后は黄州に移り、そこで余生を送った。顕宗20年(1029年)に王宮に戻されて、崇徳宮において66歳で薨去した。墓所は幽陵である。
この項目は、朝鮮の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:朝鮮/P:歴史/PJアジア/PJ歴史)。
この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
この項目は、王室、王族に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:人物伝/PJ:歴史/PJ:人物伝)。
神恵王后 / 荘和王后 / 神明順成王后 / 神静王后 / 神成王后 / 貞徳王后 / 義和王后 / 文恭王后 / 文成王后 / 大穆王后 / 献粛王后 / 献懿王后 / 献哀王后 / 献貞王后 / 文徳王后 / 文和王后 / 宣正王后 / 元貞王后 / 元和王后 / 元成王后 / 元恵王后 / 元容王后 / 元穆王后 / 元平王后 / 敬成王后 / 孝思王后 / 容信王后 / 容懿王后 / 容穆王后 / 仁平王后 / 仁睿王后 / 貞懿王后 / 宣禧王后 / 思粛王后 / 懐純王后 / 明懿王后 / 敬和王后 / 順徳王后 / 文貞王后 / 廃妃李氏 / 恭睿王后 / 宣平王后 / 荘敬王后 / 荘宣王后 / 光靖王后 / 宣靖王后 / 成平王后 / 思平王后 / 元徳王后 / 安恵王后 / 静順王后 / クトゥルク=ケルミシュ / 也速真 / ブッダシュリ / 恭元王后 / イリンチンバル / 金童 / バヤンクトウグ / イリンチンバル / ブッダシュリ / 定妃安氏 / 謹妃李氏 / 順妃盧氏
貞和王后 / 元昌王后 / 威粛王后 / 文恵王后 / 宣義王后 / 文和王后 / 献貞王后 / 元恵王后 / 元穆王后 / 元平王后 / 宣禧王后 / 文貞王后 / 宣平王后 / 順敬太后 / 恭元王后