熊木 捨治(くまき すてじ、1882年〈明治15年〉7月2日 - 1953年〈昭和28年〉5月[2])は、日本の教育者・文部官僚。
経歴
新潟県出身。新潟県立中学校を経て、1907年(明治40年)に早稲田大学文学部哲学科を卒業し、さらに1910年(明治32年)に京都帝国大学文科大学哲学科選科を修了した。同年より京都府立第二中学校教諭嘱託を務め、1916年(大正5年)に京都府女子師範学校教諭となった。京都府立第二中学校教諭、京都府立桃山中学校校長を経て、1927年(昭和2年)に文部省督学官に就任し、図書監修官を兼ねた。1941年(昭和16年)、高岡高等商業学校校長となり、1943年(昭和18年)に大阪第一師範学校校長に転じた。1945年(昭和20年)からは東京第一師範学校校長を務めた[5]。
脚注
- ^ 『むさし鐙』136頁。
- ^ 『官報』第5407号、昭和20年1月26日。
参考文献
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『昭和十五年版 早稲田大学紳士録』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 小宮義和『むさし鐙』日立印刷所、1963年。
富山大学学長(高岡高等商業学校長:1941年 - 1943年) |
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