瀧田 佐登子(たきた さとこ、1963年 - )は、日本のシステム技術者。一般社団法人WebDINOジャパン(旧モジラ・ジャパン)代表理事。旧一般社団法人Mozilla Japan代表理事。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科講師。愛称はChibi(ちび)。新字体で滝田 佐登子(たきた さとこ)と表記される場合もある。「ブラウザの母」。
来歴
生い立ち
1963年生まれ[1]。鳥取県鳥取市にて生まれ育つ[2]。鳥取県立鳥取西高等学校を経て、明星大学の理工学部に進学した[3][4]。入学前は宇宙工学に関心を抱いていたが、大学には該当する学科がなかったため生物化学を学ぶことにし、酵母菌の突然変異などを研究した[4]。全く就職活動をしていなかったが、卒業間際になって日電東芝情報システム(のちのNECトータルインテグレーションサービス)が女性技術者を初採用すると知り興味を抱き、電話してみたところ当日入社試験を受けることになり、そのまま入社が決まった[5]。1986年3月に明星大学を卒業し、翌月、日電東芝情報システムに入社した[1][6]。
技術者として
プログラミング経験は全くなかったが、日電東芝情報システムではACOS上で動作するCADを担当する部署に技術者として配属されたため、FORTRANに取り組んだ[7]。また、ACOSの案件がないときは、営業担当者と2人でパソコン用のCADの飛び込み営業をしていた[7]。その後、UNIXやC言語に関心を持つようになり、1988年に富士ゼロックス情報システムに転職する[8]。1991年、偶然再会した日電東芝情報システム時代の上司に勧められ、東芝システム開発(のちの東芝アイティー・ソリューション)に転職する[1][9]。同社では、東芝のUNIXワークステーション事業を担当する部署に配属され、サン・マイクロシステムズなどのソフトウェアのサポートなどに従事した[10]。このころ、NCSA MosaicやNetscape Navigator、Javaに興味を抱く[10][11]。その後、東芝がネットスケープコミュニケーションズのソフトウェアをライセンス販売することになり、ネットスケープコミュニケーションズとの折衝を担当することになった[12]。
1996年に日本ネットスケープ・コミュニケーションズからヘッドハントされ、同社に転職した[1][12]。サポートエンジニアとして入社したものの、アメリカ合衆国のネットスケープコミュニケーションズ本社に常駐し、Netscape Navigatorの日本語ローカライズに携わった[6][13][14]。しかし、ネットスケープコミュニケーションズの経営状況が思わしくなくなったことから、2001年に日本ネットスケープ・コミュニケーションズが閉鎖されることが決定した。これにより、Netscape Navigatorを導入した日本の企業ユーザに対するサポートは、アメリカ合衆国のAOL / Netscape本社と直接契約を結んだうえで、瀧田が行うことになった[1][15][16]。日本ネットスケープ・コミュニケーションズの事業所もなくなったため、自宅を仕事場代わりにし、日本の企業ユーザーに対する最新バージョンの提供やアップグレードの提案を一人で行っていた[15]。しかし、2003年には、同社がNetscape Navigatorなどクライアント事業から完全に撤退することになったため、それにともない瀧田の契約も終了した。
2004年に3名でMozilla Japanを発足させ、2006年に代表理事に就任した[1][6]。また、慶應義塾大学を拠点とし、同大学大学院政策・メディア研究科などが参加する「先端ITスペシャリスト育成プログラム」では、講師を務めている[17][18]。これらの業績に対して、2008年12月に日経BP『日経ウーマン』から「日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2009リーダー部門」が授与され、2009年10月に情報処理推進機構から「2009年度日本OSS貢献者賞」が授与されるなど、幾つかの賞を受賞している[19][20]。
人物
- 愛称・異名など
- ネットスケープコミュニケーションズ本社での愛称は「Chibi」[6][14]であった。現在でも、ブログの末尾などに「by Chibi」[21]と署名することがある。マスメディアなどでは「ブラウザの母」[1]と評されることがある。また、瀧田自身は、日本ネットスケープ・コミュニケーションズ解散後に日本の企業ユーザのサポートを一人で担当していたことを回顧し、当時の様子を「一人ネットスケープ」[1][15]と称することもある。コミュニティからは「ブラウザーの母」とも呼ばれている[22]。
- 趣味・特技
- スポーツが得意である。日本赤十字社救助員の資格に加え、ライフセービングの資格も持つ[9]。富士ゼロックス情報システム時代は、技術者としての勤務の傍ら、朝晩2回、東京YWCAで水泳のインストラクターを兼業していたという[9]。
家族
既婚者であり、1997年11月に結婚式を行った[23]。夫は「UNIX研究者として有名な大学教授」[23]であり「日本における情報セキュリティの第一人者」[23]だとされているが、お互い夫婦であることを積極的には公表していない[23]。
略歴
賞歴
著作
脚注
関連項目
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外部リンク