満蒙問題(まんもうもんだい)とは、日露戦争後に生じた満洲及び内蒙古における日本の特殊権益擁護を巡る諸問題のこと。
1904年(明治37年、光緖29年)から1905年にかけて起こった日露戦争は、ロシア(当時はロシア帝国)の南下政策にともなう日露の朝鮮半島に対する権益権行使の問題に端を発した。日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約で長春以南の鉄道と付属の利権などを手にし、満蒙への足がかりをつくった。以後、日本はロシアとのあいだで4次にわたる日露協約を締結し、満洲・内蒙古の互いの勢力範囲を定めた。また、清も1905年の満洲善後条約や1909年の満洲協約でこれを認めた。しかし、1912年に成立した中華民国は、1920年代に入ると国権回復運動を推進し、日本と激しく対立することとなった。
1928年(昭和3年、民国17年)当時、日本における満蒙問題を軸とした対中国政策には、次の4つのスタンスがあった[1]。
1931年(昭和6年、民国20年)9月の柳条湖事件よりはじまる満洲事変は、一般に、1929年よりはじまった世界恐慌の甚大な影響を受けて日本が陥った1930年代初頭の経済的苦境(昭和恐慌)や農村の疲弊(農業恐慌)を打開するため、石原莞爾や板垣征四郎ら関東軍によって計画・実行されたものとの見方が多い[2]。しかし、実際には世界恐慌に先だって、満洲事変につながる満蒙領有方針がすでに打ち出されていたのである[3]。世界恐慌は満洲事変を計画した軍人たちにとっては、かねてからの方針を実行にうつす好機となった[4]。
結局は、関東軍に赴任した一夕会会員の石原や板垣、会員ではないものの一夕会が支持していた林銑十郎朝鮮軍司令官らによって、上記のうちの4.が政府や陸軍中央を無視して独断で実行された(満洲事変)。第2次若槻内閣や陸軍中央は、満洲全域への事変の拡大には反対の立場であった。参謀本部は臨時参謀総長委任命令を発令し、関東軍と朝鮮軍の指揮権を奪うことで一時的に軍事行動を停滞させた。しかし、安達謙蔵内相の離反によって第2次若槻内閣が崩壊すると、次の犬養内閣の陸軍大臣には一夕会の働きかけにより、やはり彼らが支持していた荒木貞夫が就任した。荒木貞夫の影響により臨時参謀総長委任命令は取り消され、犬養内閣は関東軍の行動を追認することしかできず、1932年(昭和7年、民国21年)、満洲国が樹立された(ただし、犬養は満洲国の承認自体は最後まで拒否している)。
さまざまな分類があるが、永雄策郎によれば以下の4種類に分類される[5]。
また、信夫淳平によれば、1931年(昭和6年)の段階で、
の諸権益が存在した[6]。