満浦市(マンポし)は朝鮮民主主義人民共和国慈江道に属する市。
鴨緑江沿岸に位置する国境の都市で、対岸は中華人民共和国吉林省集安市である。ここには鴨緑タイヤ工場が存在し、火星15のミサイル発射台のタイヤを作るために金正恩総書記が訪問した。[1]
地理
慈江道中北部の鴨緑江に沿って伸びる郡。北東に慈城郡、東に長江郡、南に時中郡、西南に渭原郡がある。
対岸の集安との間には鉄道橋が架かっており、流通の拠点となっている。
行政区画
11洞・15里を管轄する。
- 江岸洞(カンアンドン)
- コゲ洞(コゲドン)
- 関門洞(クァンムンドン)
- 九五洞(クオドン)
- 軍幕洞(クンマクトン)
- 文岳洞(ムナクトン)
- 別午洞(ピョロドン)
- 烽火洞(ポンファドン)
- セマウル洞(セマウルトン)
- センムル洞(センムルトン)
- 洗剣洞(セゴムドン)
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- 乾上里(コンサンニ)
- 乾中里(コンジュンニ)
- 乾下里(コナリ)
- 高山里(コサンニ)
- 南上里(ナムサンニ)
- 登公里(トゥンゴンニ)
- 美他里(ミタリ)
- 三江里(サムガンニ)
- 松下里(ソンハリ)
- 松鶴里(ソンハンニ)
- 十里洞里(シムニドンニ)
- 延上里(ヨンサンニ)
- 煙浦里(ヨンポリ)
- 延下里(ヨナリ)
- 咸富里(ハンブリ)
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歴史
かつては平安北道江界郡の一部で、満浦鎮と呼ばれた。
国境の要衝であり、植民地期には税関支署や守備隊が置かれている。1920年頃には満洲で活動する抗日パルチザンが攻撃している。1937年代には満洲への鉄道橋が架けられ、大日本帝国による満洲支配のための交通路の一つとなった。朝鮮戦争時には中国人民志願軍が集安から満浦に越境している。
年表
この節の出典[2]
- 1949年1月 - 平安北道江界郡満浦面・高山面・外貴面・吏西面・時中面をもって、慈江道満浦郡を設置。(5面)
- 1952年12月 - 郡面里統廃合により、慈江道満浦郡満浦面・高山面・外貴面・吏西面をもって、満浦郡を設置。満浦郡に以下の邑・里が成立。(1邑22里)
- 満浦邑・別午里・乾坪里・文岳里・煙浦里・三江里・美他里・浦上里・春山里・南上里・延下里・五柳里・延上里・乾上里・乾中里・乾下里・薬水里・興判里・吏南里・登公里・松下里・松鶴里・咸富里
- 1952年末 - 乾坪里が解放労働者区に昇格。(1邑1労働者区21里)
- 1958年 - 春山里・浦上里が合併し、高山里が発足。(1邑1労働者区20里)
- 1961年3月 (1邑1労働者区16里)
- 五柳里が延下里に編入。
- 薬水里・興判里・吏南里が時中郡に編入。
- 時中郡魯南里の一部が延上里に編入。
- 1967年10月 - 満浦郡が満浦市に昇格。(11洞15里)
- 満浦邑が分割され、コゲ洞・軍幕洞・江岸洞・洗剣洞・センムル洞・烽火洞・関門洞が発足。
- 文岳里が分割され、文岳洞・セマウル洞が発足。
- 煙浦里の一部が分立し、十里洞里が発足。
- 解放労働者区の一部が分立し、九五洞が発足。
- 別午里および解放労働者区の残部が合併し、別午洞が発足。
交通
中華人民共和国の集安公路口岸から見る満浦税関
鉄道
道路
- 国境大橋 - 1937年に建設された鉄道専用橋。対岸の集安(中国)と結び、満浦大橋、集満大橋とも呼ばれる。貨物の輸送が主な用途[3]。国際列車も1日1便ある[4]。
産業
亜鉛鉱山がある。また、満浦精錬所があり、銅の精錬が行われている。
脚注
- ^ INC, SANKEI DIGITAL. “ICBM発射台のタイヤ工場、金正恩氏が視察 〝100%国産化〟誇示「輸入品より・・・」”. 産経フォト. 2023年6月27日閲覧。
- ^ 자강도 만포시 역사
- ^ デイリーNK「金正日訪中は満浦市住民も分からなかった」[1]
- ^ デイリーNK「北 “満浦市を現代的都市に再開発”」[2]
外部リンク