湯浅 宗貞(ゆあさ むねさだ)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武将。丹波国世木城[注釈 1]主。
出自
丹波湯浅氏は、紀伊国有田郡湯浅荘を本拠とした武士団・湯浅党に出自を持つ。湯浅宗重の子である宗光の末裔・宗朝が、明徳4年(1393年)に丹波国船井郡世木荘を与えられたことにより始まった。
生涯
永正15年(1518年)に、湯浅宗正の嫡子として生まれたという。
天文14年(1545年)、細川晴元と争う内藤国貞を世木城に匿ったとされ、この年の7月、世木城は落城した(『細川両家記』)[5]。
湯浅家の由緒書によると、天正8年(1580年)8月に細川藤孝が丹後へ侵攻した際に、宗貞は一族らを引き連れて加勢したという。その後、10月に宗貞は薙髪した。
また、宗貞は元亀元年(1570年)に帰農したともされる。
慶長10年(1605年)4月8日、死去した。享年88歳。
系譜
- 父:湯浅宗正(1477–1542) - 通称は五郎、右馬允、若狭守。細川勝之の子で、母の兄である湯浅宗武の跡を継いだ。初名は宗国。晩年、養意軒宗福と号した。
- 母:内藤貞正の娘
- 室:小林信久の娘
- 長男(1575–?) - 早世。
- 次男:湯浅宗康(1577–?) - 通称は勝兵衛。分家を立てる。
- 養子
脚注
注釈
出典
参考文献