渡辺 剛八(わたなべ ごうはち、天保12年7月11日(1841年9月15日) - 明治40年(1907年)[1])は、幕末の越前国福井藩出身の志士、海援隊隊士。諱は重。渡辺鳳介、柴田八兵衛、大山壮太郎、大山重と名乗った。京都府平民[2]。叙正五位[2]。
生涯
越前国福井城下地蔵町に生まれる。文久3年(1863年)に上京、同年12月幕府の船に乗り、兵庫から江戸へ向かい、同23日へ大坂へと出帆した[3]。元治元年(1864年)10月、第一次長州征伐へと参加、翌元治2年(1865年)2月5日に帰還。改元後の慶応元年閏5月征長の褒賞として銀一枚を貰う[3]。同年12月、剛八から鳳介へ改名[3]。慶応2年(1866年)7月25日、願いの通り長崎へと旅だった[3]。これ以後海援隊に所属したものと考えられる。
大洲藩からの要請でいろは丸の機関方として派遣される。しかし翌年、紀州藩の明光丸との衝突事故が起こり、事態の収拾に奔走し、事後の紀州藩との交渉にも出向いている。以後は隊長の坂本龍馬が国事に奔走する中で、菅野覚兵衛とともに海援隊の留守を務めた。しかし同年、龍馬が暗殺されると激昂し、単身上洛して敵討ちをしようと息巻くが、佐々木高行に制されたという。
海援隊の解散後、長崎振遠隊監軍として明治元年(1868年)7月、秋田への出張を命じられる[2]。同年8月に参謀添役[2]。明治2年(1869年)5月28日大山壮太郎と改名、同年7月23日大蔵省よりの達で監督司権判事を申し付けられ、のち開拓使に転じた[3]。明治4年(1872年)12月2日、任開拓権判官[2]。明治9年(1877年)、依願免本官並兼出仕[2]。明治26年(1893年)9月4日、福井県吉田郡長となる[2]。同35年(1902年)5月19日に大飯郡長へ任じられる[2]。同37年(1904年)12月23日、病をもって職を辞し[2][1]、同40年(1907年)没した[1]。享年66。
なお、菅野と龍馬の妻お龍の妹・起美の結婚では仲人を務めている。
性格
「資質剛直、胆気あり、権貴を憚らず、所信を曲げず、事を視るや磊々落々、小事に拘々たらず、豪飲一時に数升を尽し、頗る古豪傑の風あり、其氏名能く実を表すと謂うべし[1]」『吉田郡誌』
栄典
脚注
参考文献
- 新人物往来社『坂本龍馬大事典』
- 松岡司『定本坂本龍馬伝』