楢崎 将作(ならざき しょうさく、文化10年(1813年) - 文久2年正月20日(1862年2月18日))は、幕末の医師。奈良崎大造豊明の子。氏は藤原、諱は貺(たまう)。字は大蔵。東崦、繁杏と号した。
人物
楢崎家は元は長州藩士であったが、祖父源八郎の時に除籍処分となって京都柳馬場三条南で医者を開業した。父大造も同地で医者を営んでいる。
父を継いで、京都で内科・外科医を営んだ。また青蓮院宮尊融法親王の侍医として召されている。一方で頼三樹三郎らの尊王の志士らと積極的に交流した。そのために安政5年(1858年)安政の大獄に連座して捕えられた。翌年には釈放されるが、文久2年(1862年)京都の自宅で没した。[1]
墓所は京都市左京区八瀬秋元町の西林寺。
家族
脚注
- ^ 安政6年(1859年)に釈放されず、文久2年6月26日(1862年7月16日)に六角獄舎で獄死したとも伝わる。
参考文献