淡河 定範(おうご さだのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨国淡河城主。「淡河」の読みは、あわが、おごうなどの説もある。
別所長治の義理の伯父にあたる人物で、備前江見氏から淡河氏の養子に入った。長治の織田信長からの離反に同調して離反し、天正7年(1579年)6月27日には敵軍中に牝馬を放つ奇襲作戦[1]で羽柴秀長を破った。その後の定範の消息は、天正7年9月10日(1579年9月30日)に、羽柴勢に敗れ自刃したという戦死説[2]と、その後も生き延びたという生存説[3]などがあり、消息ははっきりしていない。