浅野 新平 (あさの しんぺい、1895年(明治28年)12月1日[1] - 1949年(昭和24年)3月31日[1])は、大正から昭和期の海軍軍人。皇族附武官などを歴任した。最終階級は海軍少将。
経歴
茨城県下妻市[要出典]に生まれる。下妻中学校(現茨城県立下妻第一高等学校・附属中学校)を卒業[要出典]後、海軍兵学校(45期)に入学。その後、1918年に海軍少尉になる。
1929年に海軍経理学校教官、海軍軍医学校教官になる[要出典]。1933年に皇族朝融王の皇族附武官となる[要出典]。軍艦天龍艦長として太平洋戦争に出征[1]。1944年2月、第41警備隊司令に就任し[1]、1945年5月、海軍少将に昇進[1]。
1948年1月31日、公職追放の仮指定を受ける[2]。海軍生体解剖事件によりBC級戦犯として逮捕され、絞首刑の判決を受け[3]、1949年にグアムで刑死した[1]。
親族
脚注
参考文献
- 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。