津田 信任(つだ のぶとう[1]/のぶたか[2])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。通称は与左衛門、左近将監。諱は信秋(のぶあき)とも言う[1]。
津田信勝(盛月)の長男として誕生。津田氏は勝幡織田氏庶流で、一説には織田信長の従甥にあたると云う[1]。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に家臣として長浜城主時代から仕え、天正元年(1573年)に黄母衣衆(大母衣衆)に任じられた。
文禄2年(1593年)、父の死去により家督を継いだが、山城国三牧城主として3万5,000石を領した[1]。
しかし同年または翌年、伏見醍醐、山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕された。死罪になるところであったが、父の多年の功績に免じて死一等を減じ、所領(御牧藩の前身)を没収、改易された[3]。剃髪出家して長意と号して[1]、前田利家(または利光)に身柄を預けられて加賀国金沢に幽室蟄居となった。没年不明。
結局、家督は弟・信成が1万3,000石に減封された上で相続した[4]。