横田 康景/綱松(よこた やすかげ/つなとし[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。足軽大将。
略歴
『甲陽軍鑑』に拠れば、父は下総国千葉氏の一族で、甲斐国に土着し武田氏に仕えたという足軽大将・原虎胤。
天文19年(1550年)の砥石城攻め(砥石崩れ)では武田家足軽大将である高松が戦死したために、横田高松の婿養子になり、家督を継いで武田晴信(信玄)に仕えた。『軍鑑』によれば足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられていたという。
永禄10年(1567年)8月に義信事件を受けて、信玄が家臣団に提出させた下之郷起請文にその名を連ねている[2]。
武田信玄の没後は勝頼に仕えた。天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで戦死した。享年51。跡を五男の尹松が継いだ。
系譜
- 父:原虎胤(1497年 - 1564年)
- 母:不詳
- 養父:横田高松(1487年? - 1550年)
- 正室:横田高松娘
- 室:向山氏
- 生母不明の子女
- 長男:彦九郎(? - 1572年)
- 男子:小才次(? - 1575年)
- 男子:小陸奥(? - 1575年)
- 男子:源介(? - 1575年)
脚注
- ^ 江戸幕府の公式系図集『寛政重修諸家譜』では「綱松(つなとし)」。『新訂 寛政重修諸家譜』第7巻、350頁。
- ^ 平山優「横田康景」(戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年)
出典
- 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬『新訂 寛政重修諸家譜』(第7巻、続群書類従完成会、1965年)
- 平山優「横田康景」(戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年、ISBN 978-4-642-01348-2)