森実芳子

森実 芳子(もりざね よしこ、1948年9月4日 - )は、福岡県出身の元競泳選手。高校在学中に1964年東京オリンピックに出場、日本代表選手団最年少選手であった。その後は松﨑姓となり、「松﨑ヨシ子」[1]の表記で社会活動をおこなっている。

経歴

福岡県朝倉郡杷木町大字久喜宮(現在の朝倉市杷木久喜宮)出身[注釈 1]。幼少時より筑後川で水に親しんだという[注釈 1]。杷木町立久喜宮小学校[注釈 2][2]、杷木町立杷木中学校(現在の朝倉市立杷木中学校)に学び[4]、競泳で活躍[注釈 1]。1964年東京オリンピック前年に水泳候補選手の1人に選ばれた[5][注釈 3]

高校は筑紫女学園高等学校に進む[6]。筑紫女学園は、田中聡子をはじめ多くの選手を送り出した競泳強豪校であった[6]。高校1年生のとき、1964年東京オリンピックの日本代表選手に選ばれる[注釈 4]木原光知子とともに16歳で[1]、日本の最年少選手であった。200メートル平泳ぎに出場したが、予選通過は果たせなかった[1]1966年アジア競技大会(バンコク)では女子100m平泳ぎで優勝(アジア新記録)を果たし、女子400mメドレーリレーでも優勝(アジア新記録)した[注釈 1] (Swimming at the 1966 Asian Games。同年、日本選手権水泳競技大会で女子100m平泳ぎで優勝(日本高校新記録)[注釈 1]

その後、長崎県で教員となり、中学校や特別支援学校で体育を教えたが[1]、けがや事故などからうつ病に陥ったといい、教員を辞職している[1]。一時は水泳からも遠ざかったが、木原光知子に励まされる形で水泳を再開し[1]、社会体育指導者、福祉レクリエーション・ワーカーなどとして活動している[1]。長崎県水泳連盟理事などを務め、2021年には生涯スポーツ功労者として表彰された[7]

備考

  • 2014年、久喜宮小学校に顕彰碑が建立された[注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ a b c d e f 顕彰碑の碑文。森宮建材サイトに写真が掲載されている[2]
  2. ^ のち朝倉市立久喜宮小学校。統廃合により2018年閉校[3]
  3. ^ 候補選手の中には中学生4人(木原光知子石井雅子川西繁子・森実芳子)が含まれた[5]
  4. ^ 筑紫女学園の競泳関係者では、田中聡子山本憲子木村トヨ子(以上卒業生)、浦上涼子・森実芳子が出場している[6]

出典

  1. ^ a b c d e f g 水からもらった元気 木原光知子さんに励まされて”. 平成29年度 第1回大分県自殺対策講演会. 社会福祉法人大分いのちの電話. 2021年11月26日閲覧。
  2. ^ a b 記念碑 東京オリンピック出場記念顕彰碑 久喜宮小学校”. 森宮建材 (2014年6月4日). 2021年11月26日閲覧。
  3. ^ “「今までありがとう」144年の歴史に幕、2小学校で閉校式”. 西日本新聞. (2018年3月26日). https://www.nishinippon.co.jp/item/n/403719/ 2021年11月26日閲覧。 
  4. ^ ふるさと人物誌29 郷土朝倉が生んだオリンピック選手「後藤 暢」(ごとう とおる)”. 朝倉市. 2021年11月26日閲覧。
  5. ^ a b 森実芳子(現・松﨑ヨシ子)「オリンピックと私」『TOLだより』第25号、トータル・オリンピック・レディース会、34頁、2021年11月26日閲覧 
  6. ^ a b c 百年の飛翔を訪ねて 第6回 昭和中期/1958年~1964年”. 筑紫女学園報. 筑紫女学園. 2021年11月26日閲覧。
  7. ^ 生涯スポーツ功労者および生涯スポーツ優良団体表彰制度”. 日本レクリエーション協会. 2021年11月26日閲覧。

関連項目

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!