松本 丑太郎(まつもと うしたろう、天保12年8月15日(1841年9月29日) - 明治42年(1909年)12月1日)は、静岡県小笠郡中内田村(後の菊川市)の初代村長。醸造家。
人物
天保12年8月15日(1841年9月29日)、松本三郎平の長男として、静岡県城東郡中内田村213番地に生まれる。文久3年4月15日(1863年6月1日)、西方村の木佐森茂助の三女・幸と結婚。
幕末浜松藩主・井上正直が勤皇の態度を示し、朝廷に恭順して上洛する際、松本は金百両を献納しその姿を支持した。明治9年(1876年)10月1日、父・三郎平の隠居に伴い家督を相続。以降、牧之原台地を開墾して、最新式の製茶工場を建て、製茶を始めた[1]。
明治22年(1889年)4月、中内田村の初代村長となり、静岡を製茶の一大産地とせんことを志す[1]。明治42年(1909年)12月1日死去。享年69歳。
顕彰碑
大正7年(1918年)10月、小笠郡河城村の澤水加原に、松本丑太郎の徳を讃える石碑が建立された。題辞『百世常新』とあり、西園寺公望の揮毫による。篆額は大谷嘉兵衛、撰文は孫白詩[2]で、撰文の書は松本君平による[3]。昭和15年(1940年)海軍飛行場の建設に伴い、応声教院の山門前(石段西)に移された[3]。丑太郎の開墾した、牧之原台地の西の集落を「松本開墾」という[1]。
家族
次男は政治家・思想家の松本君平で、君平の妻は岡内重俊の三女である。長女の節子は板垣退助の嫡男・鉾太郎に婚し、満州国長春市で客死した。
系譜
補註