松平 定剛(まつだいら さだよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。伊予国今治藩の第7代藩主。定房系久松松平家7代。官位は従五位下・壱岐守。
生涯
明和8年(1771年)6月30日、第6代藩主・松平定休の長男として誕生。天明6年(1786年)12月に従五位下、壱岐守に叙任する。寛政2年(1790年)4月5日、父の隠居により跡を継いだ。藩政においては文化5年(1808年)から文政7年(1824年)まで奏者番を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力した。文化14年(1817年)5月には藩校・克明館を創設し、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及などを図った。瀬戸浜塩田の着工なども行なっている。
文政7年(1824年)6月5日、長男・定芝に家督を譲って隠居する。天保14年(1843年)1月16日に死去、享年73。
系譜
- 父:松平定休(1752-1820)
- 母:不詳
- 正室:磯 - 土岐定経の娘
- 生母不明の子女
久松松平氏 今治藩7代藩主 (1790年 - 1824年) |
---|
藤堂家 | |
---|
久松松平家 | |
---|