村上 泰亮(むらかみ やすすけ、1931年〈昭和6年〉2月27日 - 1993年〈平成5年〉7月1日[1])は、日本の経済学者。専門は理論経済学。学位は、経済学博士(東京大学・1961年)。東京大学教授・国際日本文化研究センター教授・国際大学教授を歴任。
東京生まれ。父は東京学芸大学学長、青山学院大学学長などを務めた教育学者の村上俊亮。1953年東京大学教養学部教養学科イギリス科卒業。58年同助教授、のち教授。1961年、東京大学経済学博士。博士論文は『近代経済学の構造』[2]。
東大教養学部教授在任中の1988年、同学部社会科学科への中沢新一の助教授任用が教授会で否決される(東大駒場騒動)と、東大の閉鎖的体質を批判し、西部邁に続いて辞職した。
その後、国際日本文化研究センター[1](日文研)、国際大学各教授を歴任した。
1960年代は理論経済学、特に社会選択理論で世界的な業績を上げ、その成果は『Econometrica』などの有名雑誌の論文として掲載された。
1970年代は経済体制の研究を行ない、1973年論文「病める先進国」で吉野作造賞を受賞。
1980年、佐藤誠三郎、公文俊平との共著『文明としてのイエ社会』は、日本の歴史をウジ社会からイエ社会への転換として通観するもので、同書で尾高賞を受賞。同書は左派からは、封建社会を肯定するものとして批判された。同年筑井甚吉との共著"Turnpike Optimality in Input-Output Systems"で第23回日経・経済図書文化賞受賞[3]。
1980年代には「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)」を参照し、現代日本では教育・文化・経済などといった面で古典的な社会階級・階層が溶解し、「中」意識を持つ広範な社会が登場したとする「新中間大衆」論を主張し、話題を呼ぶ。また、『反古典の政治経済学』においては古典派経済学が認めるよりも広い範囲で、政府による産業保護政策は有効な効果を挙げられるとする「開発主義」論を展開した。
『中央公論』をはじめとする論壇誌での評論活動でも知られ、佐藤誠三郎らと共に中曽根康弘政権のブレーントラストとしても活躍した。