李 憲(り けん、? - 30年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。豫州潁川郡許昌県の人。
淮南で天子を自称した新末後漢初の群雄の一人である。新の王莽の時代に、李憲は廬江郡の属令(都尉に相当)を務めていた。王莽の統治の末期に、江賊の王州公が十数万の軍勢で暴れまわったが、王莽は李憲を偏将軍に任命してこれを討伐させ、李憲は王州公を撃破した。
更始元年(23年)に新が滅亡すると、李憲は廬江に割拠し、淮南王を自称した。建武3年(27年)には、李憲は天子を自称し、公卿百官を置き、9つの城を支配下として、十数万の軍勢を擁した。
しかし建武4年(28年)秋に、光武帝(劉秀)は寿春に親征し、さらに揚武将軍馬成らを派遣して李憲を討伐させ、その本拠地である舒を包囲した。籠城戦は1年以上続いたが、建武6年(30年)1月に舒は陥落した。李憲は城を脱出して逃走したが、途中で部下の帛意に裏切られて殺された。李憲の一族も、残らず誅殺されている。