朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日[1][注 1])– 1901年(明治34年)5月9日[2][3][4])は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。
豊後国直入郡下木村[5](大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町[6]、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる[5][6]。吟味見習[7]を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行[注 2]となる[7][8]。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任[1][5][6]。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた[1][7][8]。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる[1][7][8]。以後、史生、権少属、少属、五等属、収税属などを歴任し、1884年(明治17年)6月、大野郡長に就任[1][2][5][6][8]。1885年(明治18年)2月、直入郡長に転じ[2][5][6][8]、1890年(明治23年)6月に退官した[1][7][8]。
1890年7月の第1回衆議院議員総選挙で大分県第3区において元田肇の豊州会から出馬して当選し[6][8]、以後、第6回総選挙まで当選を果たし、衆議院議員に連続6期在任した[2][6]。この間、立憲政友会臨時協議委員を務めた[3]。
郷土の振興に尽力し、水路の開削、新田開発、道路整備などを進め、豊州電気鉄道への支援、竹田水電の創設などにも参画した[5][6]。また、信用組合の設立にも加わった[5][6]。その他、日本赤十字社正社員、同地方委員、日本水産会員なども務めた[9]。
衆議院議員に在任中、1901年5月に心臓病により死去した[4][10]。