曽根藩(そねはん)は、豊臣政権下で美濃国安八郡の曽根城(現在の岐阜県大垣市曽根町)を居城とした西尾光教の領国を「藩」と捉えた呼称[注釈 1]。関ヶ原の戦いにおいて西尾光教は東軍に属し、戦後に加増の上で美濃揖斐藩に移された。
歴史
曽根城は、永禄年間(1558年 - 1569年)に西美濃三人衆の一人・稲葉良通(一鉄)が築城したとされる城で、良通が居城とした[3][注釈 3]。天正7年(1579年)、良通は家督と曽根城を嫡男の稲葉貞通に譲り、清水城(現在の揖斐郡揖斐川町清水)に移り住んだ[5][6]。天正10年(1582年)、貞通は嫡男の稲葉典通に家督と曽根城を譲った[6]。天正15年(1587年)の九州征伐の際、典通は豊臣秀吉の怒りを買って伊勢国朝熊に蟄居させられ[6][7]、貞通が再度曽根城主となる[6]。貞通は翌天正16年(1588年)に郡上郡に移され、郡上八幡城を修築して居城とした[6](郡上藩も参照)。
天正16年(1588年)、稲葉氏に代わり曽根城には西尾光教が入った[3][8][注釈 4]。知行は2万石[8]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは光教は東軍に与し[3]、岐阜城攻めでは地理に詳しいころから福島正則と共に先鋒を務め[9]、曽根城を防衛し[9]、大垣城攻めでは敵将福原長堯を説得して降伏させた[9]。これらが功績とされ、戦後に1万石が加増された[10][11]。加増後の領地は、美濃国大野郡・本巣郡・加茂郡・安八郡の4郡内で都合3万石[10]。光教は揖斐陣屋(現在の揖斐川町三輪)に拠点を移し(揖斐藩)[3][12][11]、曽根城は廃城になったとされる[3]。
曽根村は美濃国一国郷牒(慶長郷牒)時点では西尾光教の知行地であった[13]。その後[注釈 5]徳川直轄領となり、寛永12年(1635年)以後大垣藩領となった[13]。
歴代藩主
- 西尾家
外様。2万石。
- 西尾光教
脚注
注釈
- ^ 豊臣政権下の大名領国を「藩」と見なすかについては書籍・事典によって判断が異なる。二木謙一監修・工藤寛正編『藩と城下町の事典』は「曽根藩」を項目として立てている。『角川新版日本史辞典』では、慶長5年(1600年)以後の大名の配置・移動を示す「近世大名配置表」において「曾根」を藩名として掲げる。一方、『角川日本地名大辞典』では藩として扱われていない。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、15世紀後半に美濃守護土岐成頼に仕えた稲葉通貞(良通の祖父)によって曽根城が築かれたとされる[4]。
- ^ 『寛政譜』において西尾家は代々曽根城主であると主張しており、光教も曽根城で生まれたとしている[9]。
- ^ 揖斐藩は元和9年(1623年)に無嗣断絶となった。
出典
参考文献
- 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。
- 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。
関連項目