斎藤家(さいとうけ)は、藤原北家魚名流利仁流と称する武家・平民・華族だった日本の家。鎌倉幕府滅亡後、奥州へ逃れて留守氏の家臣となった家系だったが、近代に第30代内閣総理大臣の斎藤実海軍大将を出したことで、その勲功により華族の子爵家に列せられた。
歴史
斎藤実の手記による「家譜概略」によれば、実の生家の斎藤家は、藤原北家魚名流の藤原利仁の七男叙用を祖とする斎藤氏の末裔で、正慶2年の鎌倉幕府滅亡で北条高時と共に自刃した鎌倉幕府御家人斎藤基継の末弟基長が流浪の身となって奥州の地へ逃れ、留守氏に仕えて宮城郡岩切村に住するようになり、以降代々留守氏に仕えた家であるという。
実の祖父斎藤高健(明治15年2月14日没)も、その隠居後に跡を継いだ父斎藤高庸(耕平。天保9年生、明治14年3月27日没)も、仙台藩主伊達家の重臣家である水沢領主・留守家において目付・小姓頭を務めていたが、父高庸は版籍奉還の際に一時帰農したのを経て、岩手県警察官に就職した。旧主である留守家は大名ではなかったのでその家臣だった斎藤家は士族ではなく平民に列した。
斎藤実は15歳の頃の明治5年に東京へ上京し、明治6年に海軍兵学寮の試験に合格。以降海軍将校畑を歩んで累進し、大正元年に海軍大将に昇進。日露戦争中の海軍省次官としての勲功により明治40年9月に華族の男爵位が与えられた。
明治39年の第1次西園寺内閣成立から大正3年の第1次山本内閣総辞職までの5代の内閣にわたって海軍大臣に長期在任し続けた。この間の明治44年の第2次桂内閣総辞職前における論功行賞で斎藤の子爵陞爵が計画されていることが新聞紙上などで取りざたされていたが、この時には実現しなかった。
大正8年には朝鮮総督に就任。『授爵録』(大正十二年~十五年)によれば、大正14年3月30日付けで内閣総理大臣加藤高明より宮内大臣一木喜徳郎宛てに斎藤の朝鮮統治の様々な治績から子爵に陞爵があるよう申牒された。これが認められて同年4月9日付けで子爵に陞爵。
さらに昭和2年には内閣総理大臣田中義一が、宮内大臣一木に斎藤の伯爵への陞爵を願い出ているのが確認できるが、これは実現しなかった。その後斎藤は枢密顧問官、さらに朝鮮総督に再任し、昭和7年には第30代内閣総理大臣に就任した。昭和10年には内大臣に就任したが、翌年の二・二六事件で暗殺された。従一位・大勲位菊花大綬章を追贈されたが、首相を経験しても伯爵への陞爵は叶わなかった。
実の夫人春子は仁礼景範子爵の長女である。実には実子がなく、明治39年に三菱財閥の実業家豊川良平の五男齊(明治31年12月2日生、昭和36年1月23日没)を養子に取っており、実の死後には彼が子爵位を継承した。彼は第一生命保険相互会社の常任監査役などを務めた実業家だった。齊の夫人静は有馬頼寧伯爵の長女である。
その息子である豊(昭和16年9月15日生)の代の平成前期に斎藤家の住居は東京都世田谷区弦巻にあった。豊の息子に誠(昭和46年2月27日)と瀧子(昭和44年2月24日生)の姉弟がある。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『子爵斎藤実伝 第1巻』、および『平成新修旧華族家系大成 上巻』に準拠。
- 系譜注
脚注
出典
参考文献